見出し画像

限界を乗り越え続けて、生きて行く。

ひとに、やさしく、を、こころがけているんだけど。。。

どれぐらい、やさしくすれば、いいんだろうね?

今日の聖書の言葉。

憐れみ深い人々は、幸いである、
その人たちは憐れみを受ける。
マタイによる福音書 5:7 新共同訳

「憐れみ深い人々」というのは、新約聖書の原語のギリシャ語で「エレーモネス」(ἐλεήμονες)という言葉が使われている。

意味は、「神が契約で示した憐みの基準に従って、とことん、憐れみ深くある」ということ。

ここでいう「契約」とは、神がイスラエルの民とむすんだ契約のことだ。旧約聖書のなかの律法と呼ばれる、モーセ五書。。。創世記・出エジプト記・レビ記・民数記・申命記が、それ。

この「契約」には、区別が立てられているんだよね。

どういう区別かというと、「選ばれたグループ」と「選ばれなかったグループ」の区別。

で、神の憐みは、「選ばれたグループ」だけ注がれる、という限界が設定されている。

この限界から出発して、旧約聖書は、こういう路線を進むんだ。。。

あろうことか「選ばれたグループ」は、神の憐みをないがしろにして、好き放題やり、その結果、神の怒りにさらされる。。。士師記、サムエル記にその様子が描かれている。

それでも神は憐みを注いで、立ち直るチャンスを何度も与える。ところが「選ばれたグループ」は、ことごとく裏切っていく。。。列王記、歴代誌にその様子が描かれている。

ついに、旧約聖書の後半に収められている預言書では、神の憐みは「選ばれなかったグループ」に向かって行くよ! ということが、あちこち、ほのめかされるんだ。

「選ばれなかったグループ」って、だれか? というと、イスラエル・ユダヤ人ではないひとたち、つまり、異邦人ということになる。

こうして、旧約聖書の結論は、神の憐みが「選ばれたグループ」という限界を乗り越え、「選ばれなかったグループ」に向かうことを提示するんだ。

わたしは、自分の民でない者をわたしの民と呼び、
愛されなかった者を愛された者と呼ぶ。
「あなたたちは、わたしの民ではない」
と言われたその場所で、
彼らは生ける神の子らと呼ばれる。
ローマの信徒への手紙 9:25-26 新共同訳

神の憐みが「選ばれなかったグループ」に注がれる、という旧約聖書の結論は、新約聖書に引き継がれ、イエス・キリストの十字架と復活によって、現実となる。

「あなたたちは、わたしの民ではない」
と言われたその場所で
彼らは生ける神の子らと呼ばれる

この超法規的事態を、神学的にどう捉えたらいいんだろう?

使徒パウロは、葛藤のすえ、こういう結論に辿り着いた。

実に、キリストはわたしたちの平和であります。二つのものを一つにし、御自分の肉において敵意という隔ての壁を取り壊し、 規則と戒律ずくめの律法を廃棄されました。こうしてキリストは、双方を御自分において一人の新しい人に造り上げて平和を実現し、 十字架を通して、両者を一つの体として神と和解させ、十字架によって敵意を滅ぼされました。
エフェソの信徒への手紙 2:14-16 新共同訳

「選ばれたグループ」と「選ばれなかったグループ」の区別が撤廃され、区別を規定していた律法そのものが廃棄され、すべてのひとが、神の憐みのうちに、ひとつにされた。。。それが、キリストの十字架と復活がもたらした「あたらしい時代」だ、とパウロは宣言している。

最初の問いに戻ってみると。。。

どれぐらい、やさしくすれば、いいんだろうね?

そもそも「どれぐらい」という、基準・区別・限界を考えることが、時代遅れ、ということになる。

イエスの十字架と復活でスタートした「あたらしい時代」を生きるとは、基準・区別・限界を、乗り越え続けることなんだ。

そういう意味では、オレはまだまだ旧約聖書に足を半分つっこんで、古い自分に死に切れていないんじゃないか、と思う。小一時間反省しよう。。。

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?