固関と関の史料での表出に関してそして3つの戦いに関すること

ざっと本郷和人氏の書籍を確認しましたが、本郷和人氏の書籍の方が詳細ですので、私が書いた固関考の有料販売は終了し無料公開とします。
壬申の乱と関ヶ原の戦いの発行は2018年。固関考をnoteに私が公開したのは2015年。固関考ではこの2つの戦いはほぼ同じ場所で起きたと書きましたが、この2018年の本郷和人氏の書籍ではもうひとつ青野ヶ原の戦いが中世に起きていて不破関あたりでは戦争は3つあったと書いてあります。
本郷和人説で明らかな推定が一個ありますねんな。固関が始まったのは天武天皇の時であろうかだそうですが、固関の初見は721年12月7日の元明太上天皇崩御の時で表記は「固守三関」。
壬申の乱(672年)の時は戦争で政権を取り合った時の軍事行動で、政権による内乱予防の固関は天武天皇より後でしょう。
固関という言葉がいつが史料で最古の記述かは続日本紀に元明太上天皇崩御の時の固関の記述があります。その史料より前に「固関」という表記があるかどうかは研究で確かめて下さるといいと思います。
少なくとも私が刊行されている大日本史料や六国史その他で固関はいつが初見かを調査したときは元明太上天皇崩御より前には固関という表現は見当たらなかったのです。日本書紀の672年の記述に急塞不破道という壬申の乱の時に大海人皇子(天武天皇)が固関と同じことをしてますのでそれに「固関」と表記されておれば本郷和人説の通りですがね。
固関は「関を固める」です。喜多新六説によれば三関設置は天智天皇の時であると思う、横田健一説では701年以前ですから、諸説あるようです。律令制度の法律が整備されていくのが701年以降です。
壬申の乱の時に大海人皇子が後に三関となる地点を通り東で軍勢を整えて西に攻めて来た経験から、内乱予防のために律令政権は三関を設置したのでしょう。
三関はどこでどういうものとするかと令に規定があるのですが701年以前に三関の地点に交通障壁を設けていたとしても常設ではなく、常設だったのは少なくとも平城京のあった奈良時代で、桓武天皇の時に交通障壁となっていて不便なので廃止するとなるのです。桓武天皇崩御の時の固関は「固守故三関」という表記で三関は廃止されていたとわかります。
むしろ元明太上天皇崩御以降の固関は戦争ではなく内乱予防の目的のもので、天皇崩御の時の固関でなくて、三関が常設だった奈良時代に恵美押勝(藤原仲麻呂)が愛発関を破ろうとしますが防がれたということも壬申の乱以後にあったことは続日本紀に記述があります。
しかも三関はそれぞれ愛発関が北陸道、不破関が東山道、鈴鹿関が東海道の関です。五畿七道と五街道では時代が異なります。中山道は五街道です。江戸時代です。不破関は五畿七道なので奈良時代から平安時代ですから東山道の関です。不破関は中山道と江戸時代に呼ばれる道で奈良時代や平安時代に東山道と呼ばれた道と同じ道の関で、五畿七道という名称が示すように道路の道筋で行政区分されていたのです。
また関東と呼ばれる前は坂東でそれは碓氷足柄を坂から関とするという古文書(太政官符)が平安遺文にも採録されており、三関は桓武天皇の時に廃止されます。
近江に逢坂関が置かれたのは三関廃止に伴いです。これも平安遺文に採録された太政官符にあります。三関は平安京よりは平城京防衛の時代のものです。平安京防衛のための関は近江の逢坂関の方でしょう。
不破関は発掘調査をされていて1978年の不破関跡調査委員会の調査報告書(美濃不破関)によると、縄文時代から江戸時代までの遺物と遺構が確認されており、和銅開珎、開元通寶、寛永通寶も出土しています。
またこの調査報告書にも採録されている古文書の急塞不破道という672年の日本書紀の記述もあります。
不破関の辺りで都の軍勢である西軍が東軍を迎撃するというのは畿内から見て東に地点設定するのにここになり、壬申の乱の時は大海人皇子の軍勢は後の鈴鹿関付近を抜け美濃の味方に合流して後の不破関辺りに至り、近江の都の大友皇子の軍勢と戦います。関ヶ原の時は大坂の石田三成の軍勢が徳川家康の軍勢と戦います。どちらの戦いも勝ったのは東軍です。
青野ヶ原の戦いは北畠顕家の軍勢が室町幕府の軍勢との戦いで通説では北畠顕家の東軍が勝ったとなっているのですが本郷和人説では西軍の室町幕府の軍勢が勝ったとなっています。(本郷和人2018年)
本州を東西に陸路で移動する時に三関の地点を通らねば西にも東にも行けないような地理的特質があります。地勢学的観点からもクラウゼビッツの関ヶ原の戦いの検証でも有利なのは西軍の方です。ですが実際戦いになって東軍が勝っているので、3つの戦いから導き出されるのは東西の決戦で五分五分でどちらが勝ってもおかしくなかったということでしょう。
壬申の乱では東軍が勝ち畿内に政権を立てます。
青野ヶ原の戦いでは西軍も東軍も政権を畿内に保持することに成功し南北朝という2つの政権がある状態が続きます。
関ヶ原の戦いでは東軍が勝ち畿内から関東に政権が移ります。
本郷和人説では日本はもともとはひとつであったとはどうも違うようだとのことです。(本郷和人2018年)
政権がいくつも併存した時代もあり、日本全体に影響を及ぼす政権があった時代もあったということなのでしょう。
叡智の蓄積に寄与するような記述となっておればいいのですが努めて書いておきます。