日本の権門とその構造

日本は古くからある複数の権門が相互に利害調整して営んできた連邦王国で、その原型は弥生時代に出来たものだと思われる。
権門は弥生時代に渡ってきた穀物生産集団がその原型で墳丘墓などを作っていた。権門の権勢を示し治水工事の意味合いから前方後円墳は作られたとみられ、奈良時代の薄葬令で禁止されるまで作られた。天皇の陵墓も簡素になっていったが現代でも天皇の陵墓は作られ続けている。

江戸時代の宝暦治水で桝屋伊兵衛という人物が人柱になっており、前近代を通じて治水工事に人柱を献じるということはあったようである。

(牛嶋正 宝暦治水 風媒社 2007年 要旨)

権門勢家という言葉が直接意味するものをみると、とくに用例を列挙するまでもなく、つぎの点が指摘できるだろう。(一)直訳して「権勢ある家門」すなわち「権威・勢力をもつ門閥家」の意味であるが、その権威・勢力は多少とも国政上におけるものを指すのであって、特殊な地域や階層の内部でのことではない。(二)官職または官制上の地位を意味しない。権門勢家が実際には大臣・納言・官大寺等々であったたとしても、その側面についていわれるのではなく、むしろ制度外的側面について用いられる。(三)権門勢家は、一個の門閥家についてもいわれないこともないが、言葉自体に複数の意味をもち、事実、不特定多数のものの概称である。そこで、以上のことを総括すれば「国政上に権威・勢力をもついくつかの門閥家があって、それらが、権威・勢力のゆえに、国政上なんらかの力をもちえた」ことを意味するといえよう。
十二世紀以降、権門勢家は、およそつぎのような類型に分けられ、それが国家の一つの秩序とされていた。
1 公家 皇族および王臣家、すなわち、個人としての天皇・上皇・法皇・女院・親王・摂関・大臣・納言等々の顕貴の貴族の家であって、「公事」を司どる文官的為政者の家柄であることを本領とする。詩歌・儒・暦などの学問を家学とする者も、この類型の権門の一部に包含されている。
2 寺家 南都・北嶺その他の社寺であって、神仏習合の状況のもとでは、いわゆる社家もこれと区別はない。鎮護国家を標榜し、公家の「王法」に対置して「仏法」の国家的性格を主張し、またほとんどは公家の「氏寺」「氏神」であった。寺家・社家は、国政に発言しうるだけの隠然たる勢力をもつが、直接政権を掌握することがないため、一見権力機構から疎外されているようにみえる。(ここにいう寺家とは、それゆえ当時の僧侶一般ではない。遁世や遊行の聖(ひじり)や、同じ背景のもとに成立した専修念仏の行者の非権力的性格が、この点で鮮やかに対比される)
3 武家 いわゆる武士の棟梁として、武士を私的に組織する者で、源義家・平清盛・木曾義仲・源頼朝・藤原頼経など、おもに源平両氏によって代表される。武家の権門としての特色については、ほかならぬ鎌倉幕府の御家人制を根幹とした機構が、その窮極の形態である。

(中世の国家と天皇 黒田俊雄 岩波講座 日本歴史6 
中世2 1963年)

黒田俊雄の権門体制論というのはもともと中世国家を現す概念の用語がないと指摘されて提唱されたが、敷衍すると現代日本の権力構造にも適用できる用語が権門である。
人間社会の営みというのは善悪ではなく事実と真実であり正義を標榜(ひょうぼう)すればするほど別の正義との間に抜き差しならない軋轢(あつれき)と闘争を生む。凄惨な殺戮(さつりく)が記録されている戦争では強固にある正義が主張されて別の正義の人間たちを殺戮した。
織田信長と一向宗門徒の戦いは最終的に一向宗門徒を根絶やしにしてしまいかねないような殺戮を織田信長は繰り広げ、比叡山を焼き討ちした。
権門と権門が戦争をすると織田信長と一向宗や比叡山のような様相になったのである。織田信長も明らかに権門の代表者の1人である。
江戸幕府と天草四郎一党の戦いである島原の乱の前後で島原半島に住んでいた人間たちが異なり島原の乱で人がほとんど死んだり逃げて居なくなってしまったので戦後に小豆島から移民を入植させた。島原そうめんの製法はこのとき小豆島から伝わったとみられる。人が根絶やしにされかねなくなる戦争になる時に争われる正義は宗教の場合が多い。

文明の進歩とともに新たに発明された利器を用いて財力と生産力と政治力を持った集団が新たな権門となったと推定され鉄道会社や自動車メーカー、IT企業は新たな権門として現代日本に存在している。黒田俊雄が中世の国家と天皇で定義した権門の類型は公家、寺社家、武家の3つだが権門のもともとの意味で敷衍(ふえん)すれば4つ目の類型に職能家を想定出来る。鉄道会社、メーカー、IT企業、総合商社は職能家に類別出来る。

(阿蘇山 権門と日本 2024年 要旨)

敷衍(ふえん)とは、1:おし広げること。「それを種にして、空想で―した愚痴」〈宇野浩二・蔵の中〉2:意味・趣旨をおし広げて説明すること。例などをあげて、くわしく説明すること。「教育問題を社会全般に―して論じる」(デジタル大辞泉)という意味である。

日本で権門がいくつも生まれて、ある権門はなくなりある権門は新しく生まれということがずっと続き、文明の利器の新たな発明で新たに財力と生産力と政治力とを持つ権門が生まれて、職能家を形成していく。
地縁血縁に立脚する社会集団をゲマインシャフト、地縁血縁によらない社会集団をゲゼルシャフトと呼ぶが、黒田俊雄の提唱した権門の3類型の公家、寺社家、武家も地縁血縁にかならずしも寄らないゲゼルシャフトの要素があり、黒田俊雄が提唱しなかった第4類型の職能家は地縁血縁にほとんど寄らないゲゼルシャフトではあるが地縁血縁に寄るゲマインシャフトの要素も多少ある。権門を決定付ける要素は地縁血縁に寄る寄らないではなく、単に財力、生産力、政治力の3要素と考えられる。

日本で穀物栽培集団が定住して財力と生産力と政治力を持って権門となっていったので長らく穀物栽培での富の集積が財力の基本だった。稲はとても米が実るので実りさえすれば食料としても財貨としても機能した。文明の利器の新たな発明がなされるとその利器により富が集積されて財力となっていく。縄文式土器はマメ栽培とも関連して利器として椰子の実の器の代わりに発明された(HindyQuest 2020年)とみられるが弥生式土器以降の利器の新たな発明のステージで権門が新たに生まれていく。鉄道、自動車、動力船、飛行機、ITなどの発明でそれぞれの利器で富を集積して権門となっていく。現代日本はそのような権門も存在する社会である。

権門は地縁血縁に寄る要素と寄らない要素とが一定のバランスを取って割合としてあり公家も寺社家も武家も職能家もその要素のバランスを取って存在する状態に変わりはない。むしろ権門を決定付けているのは財力と生産力と政治力である。財力の根拠は地縁血縁で保証される場合とされない場合とがあり生産力を維持するのも地縁血縁である場合とそうでない場合とがある。政治力を持って権力を行使する主体性を地縁血縁が持つケースと地縁血縁以外が持つケースとがある。黒田俊雄が表現した権門とはみな類型のカテゴリが「家」と表現されている。権門とは家のことであり、日本において他の家のことに意見を挟むことを戒めるのは権門である家によってルールが異なるからである。
権門の権力の淵源(もともとの原因)は治水工事などでもそうであるが、呪術的根拠と科学的根拠の一定の割合のバランスのもとで発生した力のことを言う。治水工事は宝暦治水でもそうであったが、当時の最新の土木工事技術という科学的根拠の側面で工事されながら桝屋伊兵衛という人柱を献じるという呪術的根拠の側面を持ち祭政一致の前近代ではむしろその両面が備わって全体が構成されており四大文明の治水工事でもこの本質に差はなく治水工事を行うものには権力が発生した。前方後円墳も治水工事の一環で権門を示すものである。仁徳天皇陵(大仙陵古墳)も農業用水に利用されており治水工事の一環だったという科学的根拠のことが推定できるのと同時に剣・鏡・玉という呪術的根拠の被葬品が埋まっていたとみられる。独特な意匠の美術工芸品の淵源は縄文式土器に始まり剣・鏡・玉などにも独特な意匠があるのは富雄丸山古墳の被葬品が物語っている。

日本では、何世紀にもわたり、権力を分け合う半自治的ないくつかのグループのバランスをはかることによって、国政がおこなわれてきた。今日もっとも力のあるグループは、一部の省庁の高官、政治派閥、それに官僚に結びついた財界人の一群である。それに準ずるグループもたくさんあり、たとえば、農協、警察、マスコミ、暴力団などである。これらすべてのグループは筆者が本書で〈システム〉と呼ぶことになる権力構造の構成要素である。ここで〈システム〉という用語を導入したのは、「国家」という概念と区別するためである。個々のグループはどれも、究極的な責任は負わない。これら半自律的な〈システム〉の各構成要素には、国家の権威をおびやかしうる自由裁量権が与えられているが、それらすべてを統率して牛耳るいかなる中央機関も存在しない。

(カレルヴァンウォルフレン 篠原勝訳 
日本/権力構造の謎 早川書房 1990年)

ウォルフレンの言説で用語として出てくるシステムグループを黒田俊雄の提唱した権門体制論の用語である権門に翻訳することは原則として可能である。そう考えると日本社会には明確な権力機構の責任を負う中央政府が存在せず、権門(システムグループ)のバランスで国政を行ってきており今もその構造に目立った変化はないという見解が出てくる。

日本社会がこのような特質を持つ理由について梅棹忠夫が述べた文明の生態史観に以下の言説がある。

近代日本の直面したおおくの問題を、東洋と西洋、あるいは東洋文化と西洋文化のからみあいとしてとらえようというかんがえかたが、以前からいくつもでているけれど、わたしは採用しない。そういう座標軸の設定は、すこし単純すぎるとおもうからだ。第一に、日本は東洋の一国であり、日本文化は東洋文化の一種であるとしても、それはただ、類別をあたえただけで、種別をはかる目もりが用意されていない。日本が東洋一般でない以上は、日本と日本以外の東洋とがどのようなことになるかが、かたられなければならない。
第二にこれは決定的なことだが、世界を東洋と西洋とに類別するということが、そもそもナンセンスだ。頭のなかでかんがえると、東洋と西洋との比較というと、いかにもきれいに世界を論じたような気になるが、じっさいは、東洋でも西洋でもない部分を、わすれているだけである。たとえば、パキスタンから北アフリカ一めんにかけて展開する広大な地域、そこにすむ数億の人びと。いわゆるイスラーム世界である。これは東洋か西洋か。西ヨーロッパの人たちは、それをオリエントとよぶかもしれないが、わたしたちはそれを、われわれとおなじ意味での東洋とはかんがえない。じっさいにいってみると、いろいろな要素について、多分に西洋くさいものを、わたしたちはかぎつける。しかし、これをも西洋だといったら、西ヨーロッパの人たちはびっくりするだろう。
東洋とか西洋とかいうことばは、漠然たる位置と内容をあらわすには、たいへん便利なことばだけれど、すこし精密な議論をたてようとすると、もう役に立たない。そのような表示法では、世界における日本の位置表示はできないとおもう。

(梅棹忠夫 文明の生態史観 増補新版 中央公論新社 
2023年)

日本は日本単体で描き出されるデッサンを持つ国で、東洋とも西洋とも違う特質を持ち、中心が空の権力構造で構成される権門により国政が担われ外部には中央政府を有するという虚構を交えて交流している。

日本、韓国、台湾の例を見ると、欧米型と共産主義型のほかに第三の政治経済類型が存在しうることになる。アメリカの政治学者チャーマーズ・ジョンソンは、この類型の工業国をとくに「資本主義的発展志向型国家(CDS)」と呼ぶことにした。これらCDSの力の秘密は官僚と産業界との協力体制にある。従来の政治・経済理論が見過ごしてきたひとつの変形である。日本は、一〇〇年ほど前、(国営企業主義の下で多くの国営会社が崩壊寸前にいたった後)官営事業の払下げ政策により国策会社から私的経営の手へと移行がおこなわれた明治時代に、他国に先がけてCDSモデルをみずから創出した。日本はさらに一九三〇年代はじめから一九四五年にかけて、満州の産業開発を強行するなかでこのモデルを実験した。戦後もう一度形を整えなおしたこの経済モデルは、非共産主義のアジアの発展途上国の政治家やインテリの経済的指針として、マルクス・レーニン主義理論の魅力をすっかり色あせたものにしてしまったが、その本質は保護主義である。日本は過去に証明ずみのこの成果を享受しつづけようとすれば、保護主義を続けなければならないのである。この時残る問題は、産業が国内市場で飽和状態に達し、しかも海外市場でも冷遇されるようになってからもなお、この官僚と実業家のパートナーシップがこれまで通りの利益をもたらしつづけるかどうかである。もう一つ残る問題は、日本問題が持ち上がったために特に緊急性をおびてきたものなのだが、通商戦略を持たない国ぐにが、これら凄まじい破壊力を持つ資本主義的発展志向国家との熾烈な競争で身動きがとれなくなっても、国際自由貿易制がシステムとして生き残れるかどうかということである。

(カレルヴァンウォルフレン 篠原勝訳 
日本/権力構造の謎 早川書房 1990年)

つまりウォルフレンの言説に言及のあるCDSという第三類型の国家モデルを創出したのは明治時代の日本でありいくつかの実験の末に整えられて従来の経済理論では説明のつかない経済での成功を1980年代に日本はなし得て韓国、台湾の経済発展モデルの雛形となったと理解されており、政治経済においてそのような富の享受を得たもともとの背景にはアーノルドトインビーが不十分に指摘したと梅棹忠夫が述べたような日本と日本人の姿形をデッサンしたものがあるという言説になる。梅棹忠夫が文明の生態史観を書く動機として述べられているのは以下のことである。

トインビー理論では、日本もひとつの独立した文明圏ー極東文明の分派として、朝鮮とひとからげになっているがーとしてのとりあつかいをうけている。その点ではましだが、現在地球に残っている六つの文明のうち、五つはもうだめになってきている、という。日本文明圏も、そのだめになりつつあるもののひとつだ。まだ解体がすすまず、健全さをのこしているのは、西欧文明ひとつだけだという。いますぐ日本文明がきえてなくなるというのではないから、どうでもよいようなものの、あんまりわれわれの勇気をかきたてるたちの結論ではない。わたしはただ、わたしなりに、この世界についてのデッサンの第一号を、ここでかいてみようとおもいたっただけのことである。だから、トインビー氏のことからかきはじめたけれど、べつにトインビー説とは直接関係はない。ただ、トインビー説は、やはりいかにも西洋人ふうのかんがえかただとおもう。東洋人が、日本人がかんがえたら、もうすこしちがったふうにかんがえる。

(梅棹忠夫 文明の生態史観 増補新版 中央公論新社 
2023年)

責任ある中央政府というフィクション
第一の虚構は、日本が、他国と同様の主権国家、つまり国策としてなにが最善かの判断ができ、しかも決めた国策の責任を究極的に負える国政の中枢を持つ国家だとされていることである。このフィクションは払いのけるのがきわめて難しい幻想である。外交は責任ある決定のできる政府の存在を前提とする。したがって、日本政府も他国の政府と同じように、必要に応じて政策を変えることによって外部世界に対処できるという前提なしでは、外国政府は日本との外交交渉などとてもやっていけない。
だが、相対的にいうと日本では政府は諸外国の政府ほど大きな責任を負うものではないーこれがお互いのフラストレーションの根本的原因であるーということを認識しないかぎり、これから先、日本との関係はさらに悪化してしまう。日本の政治のありようはヨーロッパとも南北アメリカとも、大部分の現代アジア諸国ともかなり違うのである。日本では、何世紀にもわたり、権力を分け合う半自治的ないくつかのグループのバランスをはかることによって、国政がおこなわれてきた。今日もっとも力のあるグループは、一部の省庁の高官、政治派閥、それに官僚に結びついた財界人の一群である。それに準ずるグループもたくさんあり、たとえば、農協、警察、マスコミ、暴力団などである。これらすべてのグループは筆者が本書で〈システム〉と呼ぶことになる権力構造の構成要素である。ここで〈システム〉という用語を導入したのは、「国家」という概念と区別するためである。個々のグループはどれも、究極的な責任は負わない。これら半自律的な〈システム〉の各構成要素には、国家の権威をおびやかしうる自由裁量権が与えられているが、それらすべてを統率して牛耳るいかなる中央機関も存在しない。
‘’自由市場‘’経済国日本というフィクション
第二の虚構は、第二次世界大戦後まもなく欧米諸国が日本に対する態度を決めるもととなったもので、日本経済が、いわゆる‘‘資本主義的・自由市場’’経済の類型に属するというフィクションである。
これまでいろいろ書かれてきたにもかかわらず、今なお、日本の経済形態をきちんと定義するとなると、外国人も日本人も一様に頭をかかえてあいまう。日本の官僚はたいてい、自分たちが好んで標榜する日本経済の呼称と実態が少し違うのではないかなどと言われると憤慨する。だが一方、日本のエコノミストたちが筆者に個人的に教えてくれたところでは、日本について書いた欧米人に共通に見られる間違いは、市場の機能を過大視しすぎるということだ。日本は実際には‘‘自由市場’’国クラブには属していないなどと、欧米の経済学者、とくに伝統を重んじる新古典学派の学者に言おうものなら、彼らは度肝を抜かれてしまうだろう。市場諸要因の自由な活動によって市場機能が働くという、自由市場の原理にもとづかないで成功を収めている経済があるなどというのは、彼らの多くにとって邪説にも等しい。欧米の経済学者のほうでも、普遍的とされている一連の経済理論に対して日本が事実で挑戦していることを見て見ぬふりしている一方で、日本の官僚はそういう状態にさせておくことが好都合だとみている。

(カレルヴァンウォルフレン 篠原勝訳 
日本/権力構造の謎 早川書房 1990年)

日本にはシステムグループたちしか存在せず中央政府は虚構であろうというウォルフレンの言及を黒田俊雄の権門論にあてはめると権門たちが利害調整して国政を運営してきた状態が日本社会であり、その本質を踏まえないと外交交渉も内政も不都合であろうというウォルフレンの言及により、想起される言説が猪瀬直樹がミカドの肖像(小学館 1987年)で述べた空虚な中心という概念である。
日本国憲法に規定のある国民統合の象徴という概念自体に内実の確からしさは実はそんなになくて、天皇も中央政府の権力機構の責任は負わない。
また自由経済市場国ですらなく様態としては進化した社会主義国家の様相を現代日本は見せておりCDSを発明してその後、資本主義とも社会主義とも違う両方の特質を兼ね備えた国家になっていったのが日本なのではなかろうか。

日本が権門というシステムグループの総合体として国家を営み虚構とウォルフレンに言及されるような中心が空のドーナツやベーグルパンのような構造の国家だとすると、天皇の存在を概念で想起すると空虚な中心で、江上波夫が騎馬民族国家で言及したように、騎馬民が大陸からやって来て国家を作ったようにも推定出来る。
騎馬民は海洋民に伴われて4つの海路を通り日本にやって来ていて、主に北方の黒竜江河口から樺太千島を伝って北海道へ南下してくる海路と沿海州から朝鮮半島東岸を海流に乗り島根半島、丹後半島、能登半島へと至る海路を通ってやってきており、ニギハヤヒ伝説が丹後半島に残っていたり、後世、京都ハリストス教会の始祖の聖ニコライがやってきた沿海州からの海路を通りやって来た騎馬民の神話に天孫降臨神話があるとみられる。

内陸ユーラシアの、「騎馬民族国家」は、農耕地帯の民族国家──たとえばエジプトや中国のように、土地という永久的な基盤の上に、自然発生的に成立したものと異なり、軍事的な利益追求を共通な目的としてもち、しかも不断に流動する人間たちによって、人為的に構成されたものである。いわば砂上の楼閣のような存在であることをまぬがれなかったが、それだけに流動性に富み、共通な目的が達成され、収益の見込が確実になればなるほど、急激に、かつ無限に成員がふえて、たちまちにして、東は興安嶺・満州から、西はアルタイ・天山まで、内陸ユーラシアの広大な部分に分布した多くの騎馬民族を包括した、一大騎馬民族国家を現出したというような例も、けっしてめずらしくない。そうして、このような優勢な騎馬民族国家にねらわれた、農耕地帯の都市や農村の人々は、不断の脅威にさらされたのである。

(江上波夫 騎馬民族国家ー日本古代史へのアプローチ
改版 中央公論新社 1967年)

江上波夫が騎馬民族国家というのは構成員が流動的な人為的国家の要素を持つと言及している。騎馬民が日本に作った国家も梁書に記述のある文身国や扶桑国と表現されているように内からは権門でありシステムグループで中心に権力の責任者は不在の集団なのだが外からは複数の国家があるように見えたのであろう。その様子は日本の時代が後に下ってもそのような様相で朝廷と幕府がそれぞれ権門なので対外的にはどちらも王と呼ばれるというような実相をかなり長期間持ち、現代日本の基本構造も古代中世近世とほぼ変わっていないとみられる。

東北アジア系の騎馬民族がまず南鮮を支配し、やがてそれが弁韓(任那)を基地として、北九州に侵入し、さらには畿内に進出して、大和朝廷を樹立し、日本における最初の統一国家を実現した。
私の見解は、従来まったくなかったというのではなく、なかでも早く大正年間に、喜田貞吉氏が発表された「日鮮民族同源論」(『民族と歴史』第六巻第一号ーー鮮満研究号所載)に、大筋のところはすこぶる一致しているのである。というよりもむしろ、私の見解は喜田説の現代版といってよいものかもしれない。

(江上波夫 騎馬民族国家 中公新書 1967年)

発表後、数多の批判に晒され、大部分は否定されているのが江上波夫の騎馬民族征服王朝説だが、1967年にまとめられて発表された騎馬民族国家の内容の示す領域や話題の全てを否定は出来ないと筆者は考えている。
騎馬民のやってきたメインルートは沿海州からの海路ではなく黒竜江河口からの海路であったろうと推定され(HindyQuest 2024年)、梁書の文身国と扶桑国のように複数の騎馬民の国家のように見える権門(システムグループ)が日本に存在したのではなかろうか。そしてその権門は有機的に増殖と消滅を経て新たな文明の利器の発明で生まれて集積された富を持って基本構造として現代日本の権力構造にはっきりと存在していると考えられる。

わたしが世界史をやりたいとおもったのは、人間の歴史の法則を知りたいからだ。そしていまこころみている方法は、比較によって歴史における平行進化をみつけだすという方法である。そしてじっさいは、わたしの頭のなかに、理論のモデルとして、生態学理論をおいている。ここで、むしろ用語をかえたほうがよい。進化ということばは、いかにも血統的・系譜的である。それはわたしの本意ではない。わたしの意図するところは、共同体の生活様式の変化である。それなら、生態学でいうところの遷移(サクセッション)である。進化はたとえだが、サクセッションはたとえではない。サクセッション理論が、動物・植物の自然共同体の歴史をある程度法則的につかむことに成功したように、人間共同体の歴史もまた、サクセッション理論をモデルにとることによって、ある程度は法則的につかめるようにならないだろうか。文化要素の系譜論は、森林でいえば、樹種の系統論である。生活様式論では、それが森林であるのかどうか、森林なら、どういう型の森林であるかが問題なのであって、樹種はなんでもよい。もともと落葉広葉樹林とか照葉樹林とかいっても、同じ種に属するものだけの純林などというものはむしろすくない。まじりあいながら、しかもひとつの生活様式ー生活形共同体をつくっているところに、植物生態学が成立した。さもなければ、区系地理学だけでじゅうぶんなところであった。そして一定の条件のもとでは、共同体の生活様式の発展が、一定の法則にしたがって進行する、ということをみとめたところに、サクセッション理論が成立した。人間は植物とちがうから、おなじようにゆくとはかぎらない。しかし、うまくゆくかもしれないから、やってみようというのが、わたしの作業仮説である。人間生態学というとシカゴの社会学者たちのつくったやす普請がおもいだされて、めいわくするが、いろいろな人間生態学が存在して、もうすこし哲学的に上等なのだって、できるわけだ。うまく成功すれば、それはひとつの有力な歴史の見かたー史観でありうる。生態学的史観、あるいはみじかく生態史観とよぶことにしようか。

(梅棹忠夫 文明の生態史観 増補新版 
中公文庫 2023年)

梅棹忠夫が人間社会とその歴史の法則を極相林などの森林の植物生態学と同じような見方ができないかと生態史観と呼ぶことにすると述べているように、人間はそれぞれ個別で民族などによって植物の樹種のようなところがあるが、人間社会全体は極相林なので樹種の別が問題になることはない。マクロな視点で人間社会とその歴史の法則を知りたいという動機を持っていた梅棹忠夫はその法則とはなにかを思考し哲学の手法を用いて著した。
筆者は日本とはどういう姿をしてきてどういう姿をしているのかという関心がずっとあり調査して思考してきた。梅棹忠夫ほどの知の巨大さではないが、一応、知とか知見とよばれるようなものをまとめておこうと思っている。
日本はその権力構造がドーナツやベーグルパンのような形をしており、中心は空で権力構造の中心にその権力の責任を負う存在はいないというカレルヴァンウォルフレンの見解に触れて長らく謎だった日本の権力構造を猪瀬直樹が空虚な中心を持つとなぜ言及しているのかの理由が認識出来た。
日本社会で問題を解決する時、権力機構の中心に話をしても何も動かずその周辺に話をすれば状況が動いていくことが多いのはドーナツやベーグルパンみたいに中心には何も存在しない空だからで周辺にはその中心の空を取り囲む実体が存在するからと考えられる。
だが中心が空だからとその中心をまるで無視するようには出来ておらず、山本七平が空気と呼んだようなものが中心を持って周辺に放射されている。(空気の研究 文藝春秋 1977年)そして多分に科学的根拠より呪術的根拠で行動しており古代から連綿と祭政一致の政治と習俗で運用されている。現代日本では建前上政教分離ということになっているが社会も経済も政治も祭政一致の頃の呪術的根拠での処断を日本は何も変えていない。
中心が空なので統合の象徴と言いあらわせて空虚な中心であると呼ばれている。
猪瀬直樹が昭和時代に空虚な中心と呼ぶ前に美濃部達吉が大正時代に天皇とは機関であるという説を発表し不敬罪に問われたが、現代日本ではそれと同じことを言説で述べても罪を問われることはない。
権門がドーナツやベーグルパンの周辺の存在として空虚な中心を取り囲み権力構造を形成しており、問題解決の話を持って行って行動に移されるのはこの権門に話を持ち込んだ場合である。
そのような国家の姿は実に古くから日本はそういう姿をしており、中心の空に何かを働きかけるのは僭越として戒められている。
目に見えないが存在しているものというものは科学的知見でもいくつも確認されており不可視光や音、電波などは見えないが存在を認知されている。だが認識される知というものをデッサンした際、日本では古くから漫画が存在するので娯楽芸術の方面で盛んに生み出されて消費されておりそれを表現する人間はとても多い。
オシロスコープが発明されて以降は音も可視化できて現代社会は可視化されて把握されている知というものが増えてそれがすべてのように錯覚されていることもある。
科学的知見と呪術的様式とは実は見かけではそのどちらかが判然としない場合があり、権力構造という形而上概念(けいじじょうがいねん 意識の上部で判断される考えのこと)は存在は空や空気みたいなものでも不都合を生じさせず、祭政一致の時代には呪術により政治が行われてきており、亀甲卜占(きっこうぼくせん)が現代日本でも行われて、それによりこの時代はいいか悪いかを占いで示したりしている。令和改元の折に宇佐八幡宮が亀甲卜占をして時代の吉兆を占っておりそのような仕事は権門の仕事なのである。

筆者注
1 梅棹忠夫の文明の生態史観の初出は1957年 
 である。引用には2023年出版の増補新版を用
 いた。
2 HindyQuestの見解は筆者との議論で筆者が採録
 したものである。