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スンダランド


以下の二つの引用から話を始める。

南部九州になぜ、最先端の文化が花開いていたのだろう。東南アジアの幻の大陸・スンダランドからやってきたのではないかとする説がある。
 スンダランドはマレー半島東岸からインドシナ半島にかけて、寒冷期に実在した沖積平野で、地球規模の温暖化によって海水面が上昇して住める土地が減少していった。すると住民の一部が五万~四万年前に北上し、東アジアや日本列島にたどり着いている。彼らが日本列島の旧石器人にもなった。さらに、ヴェルム氷期(最終氷期)が終わって海面がさらに上昇するとスンダランドは水没を始めた。
 小田静夫は、この時、スンダランドを脱出した人間の中に、黒潮に乗って直接日本列島にやってきて、南部九州に定住した人びとがいたのではないかと推理している(『遥かなる海上の道』青春出版社)。
 証拠になるのが拵ノ原(かこいのはら)遺跡(鹿児島県南さつま市)から出土した鋭利な磨製ノミ、拵ノ原石斧(丸ノミ形石斧)だという。
 磨製ノミがあれば外海を航海できる。丸木舟を外洋航海用に作ることが可能になる。それが一万二千年前ごろの薩摩灰地層の下から見つかっている。石を磨いて丸ノミ状にしたもので、丸木舟を作るための海人の貴重な道具だった。海人の分布域でもある宮崎県、長崎県、沖縄県でもよく似た石斧が見つかっている。
 また、小田静夫は、この石斧は南方の黒潮流域に広がっているため、スンダランドからもたらされたのではないかと推理したのである(『遥かなる海上の道』青春出版社)。
(海洋の日本古代史 関裕二 PHP新書 2021年)

最近の我が国における古民族植物学の調査成果は、ダイズやアズキが縄文時代に栽培化したことを明らかにした。筆者らは、二〇〇七年十一月、長崎県島原市大野原遺跡から出土した縄文時代後期中頃の太郎迫式土器の底部内面から検出した、カキの種子のような大きく扁平な圧痕が栽培ダイズであると発表した。それまでダイズは、農学や考古学においても、その起源地は東北アジアにあり、それが弥生時代になって稲作とともにやってきたと考えられていた。
このカキの種子のような扁平な圧痕がダイズであえうことを明らかにできたきっかけを作ってくれたのは株式会社パレオ・ラボの佐々木由香氏である。佐々木氏が二〇〇七年一月に熊本大学を訪れた際、それまで種不明のイネ科種子と考えられていた「ワクド石タイプ圧痕」をササゲ属の種子ではないかと述べたことに始まる。この「ワクド石タイプ圧痕」は熊本県菊池市にあるワクド石遺跡で初めて確認され、熊本県を中心とした縄文時代後晩期の遺跡一〇ヵ所ほどから発見されていた。私は、すぐにその前年に調査した長崎県大野原遺跡のカキの種子状圧痕を思い出した。そのレプリカをよく観察してみると、その側面にたしかにワクド石タイプと同じヘソのような部分が認められた。そこで、このカキの種子状圧痕はマメの一種であると予測した。佐々木氏が帰った後、穀物屋からありったけの種類のマメを買ってきて、ヘソの形を見比べてみると、ワクド石タイプのような、長さ四〜五㍉の長楕円形で、周囲が土手状に盛り上がり、中央に細い縦溝があるヘソはダイズにしかないことがわかった。ダイズの祖先種であるツルマメも入手して観察すると、サイズは小さいが同じ形のヘソがあることが確認できた。これはダイズの仲間に違いないと思ったが確信はなかった。
私のダイズのイメージは丸く黄色いダイズであり、長くても枝豆サイズ止まりであったからである。あれこれ悩んでいると、佐々木氏が東北地方で栽培されている、クラカケやクロヒラマメなどと呼ばれる、扁平なクロマメがあることを教えてくれた。ただ、これを見ても、やはりあのカキの種子のイメージとは違う。そこで思いだしたのが、煮豆のように、マメは水分を吸うと膨張するということであった。購入したマメをすべて水に浸けて膨らませると、なんと、ダイズ属の種子だけが縦方向に伸び率が幅や厚さのそれにくらべ格段に大きいことがわかった。水を十分に吸って膨潤したクロヒラマメの姿は、サイズこそ大きいものの、そのプロポーションは大野原遺跡のカキの種子状圧痕と瓜二つであった。
謎が氷解した。あの「カキの種子」は土器の粘土中に入り込んだ扁平なダイズの種子が粘土の水分を吸って膨張し、変形したものであったのである。この膨潤状態と思われる圧痕ダイズを乾燥状態に復元した場合でも長さが一㌢を超えており、野生ツルマメのサイズを大きく上回っていた。
栽培されたダイズであると確信し、熊本大学発見のダイズならぬ「クマダイ」と名づけ、世に送り出した。
(タネをまく縄文人 小畑弘己 吉川弘文館 2016年)

私と共同研究者との話の中でスンダランドのことを話題にしたときにスンダランドというのは椰子畑が広大に広がった大生産力を有する大国だったのではと共同研究者が言っていた。

(追記2024.02.16)マメの中でダイズの原種のツルマメ栽培の証拠は縄文時代の遺跡から縄文式土器とともに出てきたが椰子は温暖な土地でしか育たず、縄文時代は温暖だったので椰子を栽培していたが寒冷化とともにマメの栽培にシフトしていったとは考えられないだろうか。Osahiro Nishihata氏の指摘をもとに椰子とともにバナナも栽培されていたという仮説も立つ。ダイズやツルマメなどは生のまま食べると中毒死するが、水に浸し加熱すると食べる事ができると縄文人は発見していて縄文式土器に水を入れてダイズを浸し加熱して食べていたので縄文式土器にダイズの原種のツルマメの圧痕が付いたのであろう。(追記2024.02.16以上)
(追記2024.02.21)スンダランドの復元図を見るとタイからスマトラ、ジャワ、ボルネオあたりまでが大陸だったようで氷河期でも赤道直下であることもあって広大な熱帯雨林があったと推定されている。
(参照 月刊「たくさんのふしぎ」通巻322号 まぼろしの大陸スンダランドーオランウータンをそだてた森 福音館書店 2016年)(追記2024.02.21以上)

実際にスンダランドのことを話題にした人々の中にスンダランド人の一部がスンダランドの沈没とともに南部九州に移住してきたのではなかろうかという推定をしている人々がいる。
縄文人というのはマメやドングリの栽培をしていたことが知られ、長崎県島原市の縄文時代の遺跡からマメの圧痕の付いた縄文式土器が出土している。
スンダランド人の南部九州移住説の根拠は石器の磨製オノで、分布域には長崎県も入っている。
縄文人とは少なくとも九州の縄文人たちはスンダランドからやってきた人間たちの子孫ではなかろうかと私と共同研究者は推定をしている。
私は以前からインドネシア方面から海流に乗って東海地方を中心とする太平洋側に古代マレー人が移り住んだのではという見解を持っていた。 古代マレー人とは実はスンダランドがあった頃はスンダランドに住んでいてスンダランドの沈没とともに広域に拡散しマレー人やポリネシア人の祖先となり、拡散先には日本列島も含まれ、言語学の見地からも同じ言葉を2回重ねる語彙が日本語やマレー語、ポリネシア語にある。日本語ではくらくら、からからなどがそれである。ポリネシア語ではボラボラ島という島名がそれである。
スンダランドが沈没したことを考慮するとそれまでの人類史の定説を再構築する材料となるかもしれない。
縄文人たちはスンダランドから来たのかもしれない。

追記 2024年2月16日
Osahiro Nishihata氏にこのエッセイを読んでもらったところ、椰子もですが、バナナも栽培していたという仮説が面白いかもしれないと言っていた。
スンダランド人は椰子とバナナを栽培していて、温暖化していた縄文時代に南部九州で椰子とバナナを栽培していたという仮説が面白いかもしれない。

追記 2024年2月16日
3500年ほど前、紀元前1500年ごろにニューギニアから南太平洋に拡散していたラピタ人の土器などをみると、スンダランド沈没が40000年ほど前だと言われているので、スンダランドからニューギニア方面に拡散したスンダランド人は椰子とバナナとタロイモを栽培していたラピタ人の祖先とも考えることが出来る。石斧も発明しており、スンダランド人がこれらの栽培品種と道具を持っていたと考えるとラピタ土器と縄文式土器は近い系統なのかもしれない。
スンダランドから拡散した方面は南部九州方面だけではなくインドネシア、ニューギニア、南太平洋方面で、縄文人とラピタ人というのはスンダランド人系統の親戚であるという仮説も設定出来る。骨格から復元されたラピタ人の顔つきを国立民族学博物館にある復元像を写真で見ると縄文人の顔つきの特徴に近い印象を持つ。
以前古代マレー人という人間たちが拡散したと私は述べたが、学術研究の見地からはスンダランド人でその系統には確認されている縄文人とラピタ人がグループに入るという仮説に更新される。

追記 2024年2月17日
スンダランドは現在タイランド湾となっており、タイランド湾を水中考古学の発掘調査せねばスンダランド人の存在ははっきり断定できない。文明の水準の証拠となる遺物などが出てくるかどうかでその様相がはっきりとする。
ギリシャのエーゲ海の海底からアンフォラなどが出土したような遺物があればスンダランド人の文明の水準が推定できる。