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新たな10年をむかえて −『Subject to Change: Trans Poetry & Conversations』を読みながら(3)

敬体で書くのをやめた。人に教えることを意識した文章として読まれるのではないかということと、文末の制限の厳しさから文章の速さが落ちるからだ。

さて、正月からずっと書いているこのエッセイは、自分がこの10年でやりたいことを考えている。

そのなかで、自分の2010年代を振り返るにあたり、どうして私は自分と異なるジェンダー、性的志向をもつ人の詩に強く惹かれ、翻訳しているか、を考えている。

前回では自分の身体の弱い違和を視点として書こうとしていた。でも、青葉はるなさん ( http://twitter.com/misora05 )のtweetを拝見し、自分を強く恥じた。
青葉さんのtweetはトランスとして生きることの「一般的場面」を記している。

私は在職トランスだったけど、まず服装や髪型・化粧の有無などに比較的「ゆるい」職場に就いて(この時点で非正規雇用だった)、性別移行を行うに際して「女の格好で働く」って言い認められ、そして女性用設備を使うに際してもかなりの軋轢があって初めてそれができたんだけど、それが「一般的場面」だわ
掛け持ちで最初から「女」として働いてた場面もあったけど、その場合は手続き上性別がバレるのを恐れて保険非加入が絶対だったけど、そんなのも「一般的場面」だよな。シスジェンダーなら遭遇しえないけど、トランスにとっては珍しくもない「一般的場面」だわ。

青葉さんが無保険を選んだのは自発的なのかを考えるのは無駄に思える。小さなな個人からみると能動的だし、大きな社会制度からみると受動的だからだ。

でも、この発言を読んで、自発的行動だと言い、自己責任という人は多い、と思った。少なくとも今の僕には、保険非加入や、そのために非正規となることを受け入れるだけの決心はないからだ。

それ以前に、バレたくない、というためにどうすることが必要か、を考えるにあたり、検討する必要のある人の範囲をとても小さく考えていた。

目に見える人間として職場は考えていたが、そこに労務的なことは含まれていなかった。
たぶん、他にも、他にも、があるのはわかった。

人のことに関し、私は理解や勉強という言葉を上から目線だと感じているので使いたくない。

でも、私は一体、人が生きるために必要なことの何を理解していたのだろう。何を知ることが今現在の私を安心させることができるのだろう。

私はこの文章を書き始めたとき、好き、だけで詩を読んでいる自分を想定していた。そして、その自分を肯定できるか、を考え、おそらくその結論に至るとおもっていた。のに、私は急に不安になる。

上から目線で生きているのではないかと。