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本気で出版を考える人のためのnote。【50冊超の商業出版あり】中山マコトプロフィールとトリビアと現在、やってること。(永遠に終わらない自己紹介:音楽に目覚める編追記)

中山マコト
遅咲きのフリーランサー。
サイトマップ作りました。
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https://note.com/makotonakayama/n/n0b016f5eba8e
古い記事にもなかなか良い記事がありますよ。
ぜひ読んでみて下さい。

出版に興味のある方はぜひ僕を頼ってみて下さい。
頼られると調子に乗っちゃう人です。

完全無料の出版相談はここから。
まずは雑談をしませんか?
https://17auto.biz/makotonakayama/registp.php?sno=227

<モットー>
■本を出して人生変えよう!
■良いものは世に出さなきゃ犯罪だ!
■出る杭は引っぱる。


<スローガン>
中小零細企業やフリーランサーが、大手と戦うための、
「言葉」「ツール」「アイディア」「本」
という武器を提供する。


<略歴>
そもそもは、業界でそこそこ知られるマーケティング会社のNO2。
そこで企画、営業(とはいっても、極度の人見知りで、頭を下げたり、仕事を下さいと動くのは絶対に嫌だった、というか、死ぬほど苦手)をやり、稼ぎを作る立場で15年ほど。

自分に代わって仕事を撮ってくれる分身ツールの開発と、仕事の方から勝手にやってくる誘蛾灯の法則(カッコイイ)を駆使したクライアント開拓に定評がある。

即、使えるノウハウしか書いていません。

またマーケティング仕事の傍ら、コピーライティングで評価され、独立数年後にコピーライティングの本でベストセラーを出す。

ここで人生が激変する。

独立後は、ライティング、マーケティング企画、広告プランニング、マーケティングリサーチを引き受けながら、執筆活動を本格化させ、これまで書いた書籍は51冊。

頑張って書いて来ました。

延べ、手にした印税は累計5000万ほど。

独立11年目に出した、フリーで働くと決めたら読む本(日本経済新聞社)がまた大ヒットし、フリーランスブームを牽引した(つもり)。

思い出の一冊です。

以降、起業サポートの依頼が一気に増え、年間、数十人の起業をサポートしたり強化したり。

直系の弟子も全国に100人超。

2019年に出した「頭のいい副業術」が売れ、副業のアドヴァイス、立て直しなども多く請け負う。

最近のヒット作です。

以降、コロナのせいで静かにしながら、kindle出版んを学び、またkindleで出版したい人にそのやり方を教えるプロジェクトを沢山やっている。
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<主な仕事のカテゴリ>
広告企画
コピーライティング(特にキャッチフレーズには定評がある)
インタビュー。
商品、ネーミング開発。
商品開発、サービス開発。
起業のサポート。
副業のサポート。
商業出版支援。
kindle出版支援。
原稿代筆。
等々
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<このnoteで書いていること>
1:商業出版の実現法。
平凡なマーケターだった僕が、どうやって商業出版50冊越えを実現できたのか?そのプロセスとやり方の全部。
2:kindle出版の実現法。
kindle出版をなめていた僕が、kindleⅡにのめり込み、自分も20冊以上を出し、しかも30人以上の出版を実現させてきた方法の全部。
3:読まれる文章術。
本を書いたり、コピーを書いたりする試行錯誤の中でみつけた、読まれて、刺さって、抜けない文章や言葉の操り方と生み出し方の全部。
4:売れる、稼げるキャッチフレーズ(商品名、肩書き)のつくり方。
たった1行で、売り上げや集客や、場合によっては人生を変えるキャッチフレーズづくりの全部。
5:フリーランスの成功法。
自分が遅咲きで起業して、初月から1000万を超える収入を手にした方法の全部。
6:アイディアの生み出し方。
営業、売り込みが圧倒的に下手で苦手な僕が、それなりの稼ぎを、営業無しで手にしてきた方法の全部。
7:現住所、沖縄の離島”伊江島”についての正しい情報。
島の良さ、厳しさをかいつまんで。

<なりゆき>
約、20年前。
仲間達と会社経営後、どうも目指す方向がズレてきて会社に見切りをつけ独立を決める。

会社は非常にうまく行っていたのだが、当時ナンバー2で、稼ぎの7割を担っていた僕が辞めることで、会社がつぶれると危惧した社長に、背任で訴えられそうになったり、諸々、嫌がらせをされる。
が、何とか抜け出し、フリーランスのマーケターとして動き始める。

以降、細々と地味に静かに暮らしていくつもりが、独立4年目に、ひょんなことから本を出すことになり、人生激変。それがこの本。

売れなかったデビュー作

哀しいかな、このデビュ作は全然売れなかったけれど、二冊目に出たこの本が、バカ売れし、一気にベストセラー著者の仲間に入る。

ベストセラーです。

以降、続々と執筆依頼が押し寄せ、あれよあれよと本を書くうちに気づくと50冊越え。

10万部超えのベストセラーも複数を数え、知らないうちに人気作家になり、怒涛の20年を過ごす。
メディアへの登場も数知れず。

結構、出たな~。

そもそもはマーケターでコピーライター。

多分、あなたがよく知る商品やサービスのコピーとかネーミングを担当はしていますが、主に広告代理店からの依頼が多いため、具体名は出せず。

広告代理店は、自分達の名前でやったことにし、賞を獲ったりもするので、実は僕がやったと言う事実を表に出せません。出してしまうと、代理店の面子(めんつ)が潰れるので命を狙われるという噂もあるとかないとか。

本が出たことで、ライティングやマーケティング仕事の依頼が激増し、身体を壊しかける。(今は大丈夫)
東京は杉並、荻窪と言う駅の丸の内線のホームで、逆のホームに入線して来た電車の風圧に押され、ふらふらとホームに堕ちそうになったのもこの頃。
眠かったし疲れていた。

最初の奥さんとの間に2女を授かるが、ずっと仮面夫婦を演じ続ける。
家の中に敵がいる状態にさすがに耐え切れず、離婚。
元妻の独立心の強さは、ちょっとケタが違いましたね。

水泳とマラソン、トライアスロンを始めた元嫁との生活嗜好、食の好みの乖離が離婚理由と言う噂も一部あり。
離婚後、大好きな龍が如くの舞台、新宿歌舞伎町の近所にマンションを借り一人暮らし。

龍が如く、の街。

呑めや歌えやの酒池肉林、竜宮城状態の日々を過ごすが、さすがにそれも飽きた頃、あの悪名高いコロナの野郎がやってきて、生活が一変。
静かに家で過ごす日を重ねる。

一年が過ぎた頃、当時、僕の仕事を手伝ってくれていた今の奥さんからの誘いで大阪に移り住む。
だって、東京にいても、人とは会いにくいし、人を集めるのもダメだし、好きな飲食店は開いてないし、早く閉まるしで八方ふさがりですからね。

大阪に移り、二年過ごすも、仕事はほぼリモート。
というか、これで充分やれるという事に遅ればせながら気づく。

今は、16才年下の二人目の奥さん(大阪に呼んでくれた張本人)と、終の棲家と決めた沖縄の離島、伊江島で生活。

4000人の島民よりも牛の数の方が多いという島で、毎日がモ~大変(牛だけに)。

ブランド牛のメッカ。

これ迄の都会暮らしと打って変わり、足るを知る暮らしに根を張りつつあります。

島にはファミリーマートが二軒、コンビニはこれだけで、セブンイレブンもローソンもなし。
他には生協系のスーパーとよろず屋が何軒か。
無人の野菜即売所が幅を利かす島です。

これまで50冊を超える本を書いて来ましたが、ここ数年はkindle出版にもはまり、研究も重ねています。

翻訳された本を入れて51冊。

kindleも実に面白い。
知れば知る程面白い。
僕自身は、出版で間違いなく人生を変えたので(これ、本当です)フリーになったのに、無駄に苦労をしていたり、雇い主が会社からクライアントに変わっただけの生活だったり、上に向かう方法が分らずに困っている方に、僕のやり方で良ければお教えしたいことがてんこ盛り。

ここ10年ほどは、出版の支援、フリーランスの成功法などを伝授しています。

出版や、ブランディングに関心のある方には喜んでいただける記事を書いて行きますし、書いているつもりです。

【僕の可愛い著書達】
https://www.amazon.co.jp/stores/%E4%B8%AD%E5%B1%B1%20%E3%83%9E%E3%82%B3%E3%83%88/author/B0043VOV5M

【中山マコトのトリビア】

1:本名は真琴。過去に、男性でこの字の人に会ったことが無い。

2:父は精神科医。マコト自身も、何の疑いも抱かず、医者になるつもりでいた。もしそうなっていたらと思うと・・・身の毛がよだつ。

3:生まれは九州の大牟田。三池炭鉱のそば・・・らしい。半年足らずで引っ越したらしいので、まったく当時の記憶無し。(当たり前)

4:19才までに九州内を13箇所引っ越し。住んだことの無いのは、鹿児島県だけ。浅く広く・・・の典型的人生。

5:精神科医の父は、自らが重度のアル中。365日、毎日、日本酒を一升呑む生活。従って、アル中がアル中を診ると言う、あり得ない医者だった。でも腕が良かったのか、さしたるトラブルには見舞われなかったらしい。時々、患者さんの家族から九州の医師会に通報されたらしいが…。

6:父の名前は環(たまき)。母は光枝。弟は郁美。これに真琴を加えると表札は、完全な女系家族。ですが、空き巣に入られたことは無い。(と思う)

7:父は毎日、日本酒の、当時2級酒を飲んでいた。365日、まったく欠かさずである。で、他に口に入れるモノは牛乳のみ。毎日、酒と牛乳だけで約20年生き、結局・・・死んだ。(そりゃそうだろ)

8:父が死んだとき、父の遺志により、父の友人の先生に、献体解剖をしていただいた。そこで言われた事。「普通の人なら確実に死んでるだろうな?と言う病気を13個持ってましたよ、環さん。」スゴイ人である。

9:中山マコトは1500グラムの超未熟児で生まれた。母の必死な対応で九死に一生を得た。(らしい)医者は、「覚悟をしておいた方が良いかも?」と言ったらしいが・・・。

10:中山マコトがランドセルを背負って小学校に行くとき。ランドセルが歩いてる!と言われていたらしい。そのくらい、小さかった。

11:マコトが生まれるまで、母は実に12回の流産を重ねている。クセになってしまったんでしょうね?

12:中1の後半、日本脳炎、中2の春に赤痢を患い、その直後に、自家中毒で入院。足かけ一年、学校を休む。特に日本脳炎は、父が医者だったおかげで早期発見が出来、ワクチンが間に合う。そうでなければ今頃は・・・パーだったかも。

13:日本脳炎、赤痢、自家中毒を立て続けに患い、一年間ほど学校を休むも、学期をまたいでいたおかげで落第せずに済む。意外にも強運なのだ。

14:中2の終わり、それまで両目とも2.0だった視力が、0.1を切る。たった2週間くらいの出来事。理由は、部屋に篭もりきりでプラモデルを作り続けたこと。コンテストに入賞したくて必死だったのだね。

15:コンテストの対象は飛行機。マコトは二式大艇と言う、日本軍の輸送機を選択。これ一機を完成させるのに、コンプレッサー(噴霧器)を含め、資料、塗料、用具その他、今の金額換算で、50万円くらいは使ったらしい。

16:2週間の部屋篭もりはマコトにある思いがけないダメージを与える。それは・・・シンナー。塗料にはシンナーが大量に含まれるし、接着剤も同様。このシンナーまみれの生活を2週間、ほぼ部屋を閉め切って続けたのだ。

17:プラモデルも完成し、応募用の写真も撮り終え、一次応募の書類と共に送付。安心したのか一気に疲れが出て、目がかすむ。それだけならまだ良いが、目の奥が針で刺されたように痛むし、体中の関節に力が入らない。すわ!重い病気か?と父に相談すると、しばしの問診の後、「シンナー中毒だな!こりゃ!」とのご託宣をいただく。

18:父の指示で、父が院長をやっている病院に3泊4日で入院。もちろんシンナーを抜くため。いわゆる禁断症状は重くは無かったが、でも、震えが来たり、体中がちくちくと痛んだり。いや~、参った参った。

19:マコトは強度の猫舌。普通のラーメンとかはゆっくりしか食べられない。定食屋さんに行くと、味噌汁の蓋をまず外し、食事中ずっとかき混ぜながら、最後に一気に飲み干すと言う技を使う。最も苦手なのは、クリームコロッケとかたこ焼き、それに中華丼・広東麺などのあんかけ系である。かつて自分を越える猫舌には会ったことが無い。

20:猫舌と並ぶマコトの特徴に、”猫肌”がある。つまり熱いお湯に入れないのだ。家庭での風呂の適正設定温度は39度。41度になるとほぼ拷問。従って、温泉に行っても湯船には入らず、部屋風呂シャワーで済ませる。なんのための温泉ですか!とお叱りを受けるが、「あんた達のための温泉です!私には関係有りません!」と答えることにしている。無理なものは無理!!

21:猫肌について少し補足を。よく、熱い温泉でも我慢して入ればそのうち慣れて気持ち良くなるよ・・・と言う言い方をされる。それはまったくの嘘。以前、ある人に強要されて無理矢理入れられ、ちくちくする肌のあまりの痛さに気を失いそうになる。根性論が通用しない世界が有るってコトを大人のみんなには知って欲しい。

22:中山マコトは、サウナに入ったことが無い。

23:中山マコトはいわゆる”風俗”に行ったことが無い。

24:中山マコトは20才近くまで、サウナとトルコ(今で言うソープランドね)の区別が付いていなかった。

25:中山マコトは、過去に、”本物の日本刀”で脅されたことが2回ある。.いずれも濡れ衣だったけど、マジ、死ぬかと思った。あの時切られるか刺されるかしていたら、と思うと夜も7時間くらいしか寝れない。

26:中山マコトは、24才の時、新橋でスナックの雇われマスターをやっていたことがある。

27:この辺りで一旦、学生時代に戻ろう。高校は熊本市内の高校。父の弟さんが教授をやっていた大学の附属高校に、父が勝手に入れた。しかも・・・寮。ここから益々波瀾万丈な日々が襲い来ることになる。

28:あ、そうそう。肝心なコトを忘れていました。真琴と言う文字は九州の医師会にいらした、父が尊敬する、ある大先生の名前をいただいたもの。オリジナルではない。男が生まれても女が生まれてもどっちでも良い様に・・・と用意していたらしい。弟の郁美も同様。なんだ、手抜きじゃん!

29:マコトが無理矢理入れられた高校の寮は、まさに軍隊の様な場所だった。一年生が4人で一部屋。各部屋には大学の名前が付いている。マコトが入った部屋は、九大と言う部屋だった。

30:軍隊並みと言うのはまさに本当で、例えば学校の校庭で100メートル先に上級生の姿を認めたら、そこに届く声で挨拶をしないといけない。気づかなかったりすると、夜の点呼で指導と言う名のつるし上げが待っている。

31:一年生は部屋ごとの連帯責任。誰かひとりが不始末をしでかすと、全員がやり玉に挙げられる。殴る蹴るはまったくないが、代わりに”腕立て伏せ””腹筋”などがついてくる。屋上に上がり、毎日のように、腕立て200,腹筋100をやらさせる日々。

32:高校の寮の時代についてはあまり書きたくはないのだけれど、とにかく理不尽の権化だった。次の1年生に同じ苦しみを味あわせたくなかったので、マコトは1年で寮を出ると決めていた。他の面々も「俺も1年生をいじめたりしたくないから出る」と言っていたのに、その日が来ると残るという。
人間の哀しさ、浅ましさを知った瞬間。

33:寮にいる期間、マコトは週末博多まで通っていた。あるライブハウスに行くためだ。
当時、音楽(ご多分に漏れずフォークソングでした)に目覚めたマコトは、どこにそんな行動力があったのか、フォークロック愛好会と言うのを立ち上げた。小さく狭い部室を与えられ、ドアの外にビラを貼っていたら、数人の応募があった。リードギターの凄いヤツとキーボードの凄いヤツ、フォークギターとヴォーカルの凄いヤツが集まり、マコトは即、ベースを選んだ。
バンドを組んで、活動することが決まり、当面の目標は文化祭デビュという事になった。

34:バンドの練習は、歯科医の息子であるヴォーカルの松本家で行った。熊本の一等地、防音設備も組み込まれたその部屋は、さながらスタジオのようだった。

35:文化祭のセットリストを決めるのに少し揉めた。マコトは日本の曲のカバーをしたかったのだが、他の3人は洋楽がよいという。しかもビートルズ絶対派とハードロック派に別れ、結局、日本の曲1曲、ビートルズのカバー2曲、ハードロックバンドのカバー一曲と決まり、練習を重ねる事に。

36:いよいよ文化祭の当日。客の入りもそこそこでバンドはステージへと。他校からの女子学生も多く、それは後々、ヴォーカルのMとギターのTの人気だと知ることになる。

37:文化祭も無事終わり、部員も増えた頃、マコトは寮を出た。
予め予約しておいたアパートを正式に借り、一人暮らしを始める。
当時、父の代理で九州医師会のヨーロッパ旅行に参加することになり、急遽、フォークギターを特注することになる。父を巻き込み、何とか予算を勝ち取り、オリジナルデザインのフォークギター(ヤマキというメーカで、いたるところに貝殻が埋め込まれた素晴らしいギター。当時の価格で30万程度だったと思う。)を手にし、マコト青年は意気揚々と旅の船に乗り込む。確か12日くらいの旅だったと思う。ここで一生忘れられない女性と出会う。

以降、徐々に続く。






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