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違和感を指摘した者が淘汰される世界【空気の研究】

私たちの意思決定を支配しているものは一体なんなのか、考えたことはあるだろうか?

小学校で机をコの字に並べてやった討論会での多数決だろうか。
議員を選抜する選挙での投票だろうか。
過去の統計や経験だろうか。

私は、自分自身の意思決定も、集団での意思決定も、話し合いや統計などのデータ、経験を持って決まっていると信じて止まなかった。
だが、その考えは本当に正しいのか?と立ち止まった時、そうではないのかもしれない、そう思った。


では、何が私たちの意思決定を支配しているのか?


それは「空気」だ。


「これは今、言っちゃいけない雰囲気だな」
「先輩ピリついているから話しかけるの後にしよう」
「ここでみんなの後に続かないと変な目で見られそうだからやるしかない」

いい例が思い浮かばなくて申し訳ないが、なんとなくわかっただろうか?イメージできただろうか?
私たちの日常を取り巻く圧倒的強者の「空気」の存在を。

私は、高校生の時から「違うと思ったことを違うと言えない社会が嫌いだ」と、ずーーーーーーっと言っていた。そしてつい半年前くらいに、私が口すっぱく言っていたこの大嫌いな社会を説明してくれた本に出会った。山本七平の『「空気」の研究』という本だ。初版は1977年なのでちょっと古い本だが本当に面白いのでおすすめ。その本の中で山本はこう語っている。

日本人は論理的な議論の結果ではなく、得体のしれない「空気」なるものに支配され、意志決定(自由)を拘束されています。
結論を下す際、論理的帰結ではなく、空気に適合することが第一になるのです。
空気の前に議論(論理)は無効化し、無色透明の空気は、意識的にその存在を確認できない漠然としたものとして人間を包囲し、絶対的に拘束します。
人間が最終決定者なのではなく、空気が決定者なのです。

『「空気」の研究』(山本七平,1977)

この本の中では、山本自身の戦争の体験も語られる。そこでももちろん空気は最強の存在として君臨していたことがうかがえた。戦争を振り返った時、「あの時の空気ではそうせざるを得なかった」と言わせるほどだ。そうせざるを得ないという言葉から分かるように、みんながみんな本意であったわけではなかったということがわかる。作戦として成り立たないこと、過去の統計的に無謀であるとわかっていても、後に退けない空気がその時代を支配していたのだ。

私はこれを読んだ時、なんと絶望的な状況だろうと思った。無謀であるとわかっていながら敵陣に特攻するなんて今の私には全く意味がわからない。(失礼な発言かもしれないが、正直に言わせてもらう。空気を無視させてもらう。)
本当は行きたくないなと思っていても、行かないと「薄情モノ」、「国のために戦えない弱虫」などと言われるのだろうか?仮に生きていても一生そのように罵倒されるような空気だったのだろうか?なんと最悪な世界だろう。あまりに空気という悪魔に支配されすぎではないか?

私は、そんな悪魔のような空気には絶対に支配されたくない。そんな空気全部ぶっこわしてやる。違和感を唱えるものがどれだけ淘汰されようと、よくない空気には屈したくない。

空気は自然発生的にできることもあるが、人工的に発生させることもできるのだ。例えばAとBの二択があった時、権力があるものたちは大多数がAを選ぶような空気を作ることだってできるのだ。上記の戦争の事例もそうだったのかもしれない。私は当時を知らないのでその時の空気感を正しく解釈することはできないが・・・。
人工的な悪魔の空気があるという可能性を鑑みると、私たちは、それが正しいのか、正しくないのかを正確に見極めるまではいかずとも、考えることができる最低限の知識や意志を持っているべきだと思った。そしてそれが違うなと思った時声を上げる勇気も少しだけ持ち合わせていたいとも思う。

社会全体が、悪魔の空気に支配されてしまった時、何か大きな過ちを犯してしまわないように。違和感を感じれるほどのアンテナは張っていたい。

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先まわりしてここでもお礼述べておきます。ありがとう。Grazie mille!!