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物は情報であり、パターンであり、記号である。

今日はミハイ=チクセントミハイ氏(アメリカの心理学者)による『モノの意味 - 大切な物の心理学』の第1章「人間と物」から「物の本質」を読みました。では、一部を引用してみたいと思います。

私たちは物を、意識の中で識別可能な属性を有する一定量の情報、つまり一貫したイメージやラベルを喚起しうるだけの整合性あるいは内的秩序を持ったパターンとして規定する。そのような情報の単位は、記号論の言葉を借りるならば≪記号≫ということになろう。
記号としてみたとき、物は≪客体性≫という固有の特質を帯びる。つまり、それらは同一個人内では時間を超えて、そして異なる個人からは共通の反応を引き起こす傾向がある。情動や観念などの他の記号に対して、物は独自の具象性と永続性を備えているように見える。もちろん、物のこうした特性はその物理構造にもとづいている。それゆえ、古代人の作った人工物は、彼らの会話や信仰に関する記録がなくても、その文化の観念像を今なお伝えてくれる。
われわれの視点をより鮮明にするため、ここでは主に、人間の意図によって形作られた物に関心を向ける。人間の作った物は二重の意味で、その存在を意図に依拠している。他の物と同様に、それらは解釈する主体の心的エネルギーを通じて解釈されると同時に、自然物と異なり、作り手である人間の心的エネルギーの投資によって形を与えられた物でもある。太陽や雨の物理的組成は人間の意図と無関係である。それらは、私たちがパターン化された意味のある情報として注目することで意味を持つ対象となる。しかし彫刻や古い靴は、作り手の注意や意図があってはじめて存在する。

「私たちは物を、意識の中で識別可能な属性を有する一定量の情報、つまり一貫したイメージやラベルを喚起しうるだけの整合性あるいは内的秩序を持ったパターンとして規定する。」

この言葉が印象的でした。

あらためて確認すると、著者は「人間と物との関係性」を考える上で、まず人間と物を定義することから始めています。そもそも人間とは何か、物とは何か。

著者は、物について次のように述べています。

・意識の中で識別可能な属性を有する一定量の情報
・一貫したイメージやラベルを喚起しうるだけの整合性あるいは内的秩序を持ったパターン
・記号

短くすれば「物は情報であり、パターンであり、記号である」となりますが、これはどのようなことを意味するのでしょうか?

「それゆえ、古代人の作った人工物は、彼らの会話や信仰に関する記録がなくても、その文化の観念像を今なお伝えてくれる。」という著者の言葉を手掛かりに考えてみたいと思います。

頭に思い浮かんできたのは「法隆寺」でした。

法隆寺は、推古15年(607年)に創建されたとされる、言わずと知れた仏教建造物です。地震や台風など、世界でも自然災害の多い日本において、いまなおその姿を残し続けています。

法隆寺専属の宮大工である故・西岡常一さんの『木に学べ 法隆寺・薬師寺の美』より、いくつかの言葉を引きたいと思います。

「しかし、ヒノキならみな千年もつというわけやない。木を見る目がなきゃいかんわけや。木を殺さず、木のクセや性質をいかして、それを組み合わせて長生きするんです。」
「人間が知恵をだしてこういうものを作った。それがいいんです。それが文化です。それを知らずに、形がどうや様式がどうやいうのは、話になりませんな。」
「建築物は構造が主体です。何百年、何千年の風雪に耐えなならん。それが構造をだんだん忘れて、装飾的になってきた。一番悪いのは日光の東照宮です。装飾のかたまりで、あんなんは建築やあらしまへん。工芸品です。」

西岡さんの言葉に触れると、「物は情報であり、パターンであり、記号である」という言葉は、新鮮に感じられます。

人工物であれば何かしらの「意志」が「合理」で形作られた。理というのは「流れ」とも言えるのでしょうか。その流れは何かしらのメッセージでもあり、受け取り手の内側で何かしらの感情や印象を呼び覚ますような。

情報・パターン・記号、というのは「メッセージを伝える媒体」と解釈することができるのかもしれないと思いました。自然物も同様で人の意志は介在していないけれど、その物に触れた人の内側で同じように何かの感情を呼び起こす。

こう考えてみると「人間と物の関係性」の鍵となるのは、物が持つ固有のメッセージを汲み取る「人間の感受性」なのではないか、と思えてきます。

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