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「選択的関心」がないままであれば、経験は単なるカオス...

今日はミハイ=チクセントミハイ氏(アメリカの心理学者)による『モノの意味 - 大切な物の心理学』の第1章「人間と物」から、昨日に引き続き「心的活動パターンとしての人間」を読みました。では、一部を引用してみたいと思います。

涵養は、人が目標の追求に際して注意を選択的に向けることではじめて可能になる心的活動である。注意は意図的行為の達成を仲介する媒介物であり、「心的エネルギー」と位置づけるのがふさわしい。(中略)われわれの用法はこれとまったく異なり、心的エネルギーを「動的な注意」とみなしたフロイト自身が初期に定式化した内容に近い(Freud, 1965, p.134)。注意と心的エネルギーは、本研究では交換可能な概念であり、その根底には意図的な心的行為は注意を振り向けることなしには遂行されないという前提がある。
心的活動は、情報が意識の中で選択・処理される際の注意を方向づける意図から成り立っている。私たちが何かに注意を向けているとき、わたしたちは何らかの意図を実現するためにそうしている。心的活動は自己意識のダイナミクスを決定し、その結果として、その人の自己を構成し、それによって、その人が何であるかをも決定する。
ウイリアム・ジェームズの言葉を借りると、次のようになる。
"しかし、物について考えた瞬間、単なる存在と外的秩序の感覚とを倒置するような経験の観念がいかに誤っているかがわかるだろう。外的秩序の中にある何百万もの品目は私の感覚にとっては存在しているが、それらは決してそのまま私の経験の中には入ってこない。なぜか。それらは私に何らか≪興味≫を抱かせないからである。≪私の経験は、私が注意を向けることに同意したものである≫。私の≪注意する≫品目だけが私の精神を形成する - 選択的関心がないままであれば、経験は単なるカオスである。(James, 1890, p.402)"

≪私の経験は、私が注意を向けることに同意したものである≫。私の≪注意する≫品目だけが私の精神を形成する - 選択的関心がないままであれば、経験は単なるカオスである。

この言葉が印象的でした。

ウィリアム・ジェームズ(1842〜1910)はアメリカの心理学者・哲学者で、「人間の意識は静的な部分の配列によって成り立つものではなく、動的なイメージや観念が流れるように連なったものである」と捉える「意識の流れの理論」を提唱しました(Wikipedia参照)。

さて、この言葉に触れたときに思い浮かんできたのは「経験と経験ではない物事はどのように区別されるのか?」という問いでした。

日常生活の中で私達はじつに様々な経験をしているように思いますが、でもふと振り返ってみたとき、はたして「経験した」と言えることはどれぐらいあるでしょうか?

例えば「たしかに"何か"をしたけれども思い出せないこと」は経験に含まれるでしょうか?その何かに取り組んでいる一連の時間全体は、経験と言えるのでしょうか。

私は毎日外を歩くようにしているのですが、一日を振り返ったとき、どの道を歩いただろうか、と考えみます。道端には何があっただろうか。すれ違った人はどのような表情だっただろうか。

道端に咲いている草花にふと目を、心を奪われる時もあるかもしれません。あるいは、すれ違った人のことを思い返すこともあります。なんだか険しい表情をしていたり、嬉しそうな表情をしていたり。そうしたことが思い出されると、その時の歩みは自分の中では「経験」と呼べるものになります。

歩くことに集中していて、自分の足取りしか覚えていないこともあります。その歩みも自分の中では「経験」です。一歩を踏み出した時の地面の感触が思い起こされてくるのです。

「涵養は、人が目標の追求に際して注意を選択的に向けることではじめて可能になる心的活動である。注意は意図的行為の達成を仲介する媒介物であり、「心的エネルギー」と位置づけるのがふさわしい。」と著者は述べています。

つまり、人間と物が関係性を深めていくためには「涵養」すなわち「能動的に解釈をすること」が重要であると。

何かに注意を向けること(選択的注意・選択的関心)が「行為を経験に昇華させる」上で必要な気がしてきます。先ほどの「歩み」の話を思い起こすと、注意を向ける対象は、自分でも自分以外でも構わないと思います。

物との関係性を深める上で「意識や注意を向けることが第一歩」ということなのだろう。そんな気がしました。

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