言葉は便利であるがゆえに不便でもある。
言葉は便利である。便利であるがゆえに不便でもある。そんなことを思うわけです。
もしも言葉が存在しなければ、自分を取り巻く世界、環境は混沌としたものになっていて、あらゆるものが「それ」「あれ」と表現せざるをえない、いや「それ」とか「あれ」とすら表現することができません。
言葉は物事、事物にラベルを与え、混沌とした世界を文節化することで秩序を生み出してゆくわけですが、では「あらゆる物事、事物を言語化することはできるのだろうか?」という問いが浮かんできます。
言葉による文節化は連続的な世界を「離散化」してゆく営みのようなもので「削ぎ落としてゆく」あるいは「割り切る」に近いけれど、言葉を用いることで物事や事物を特定、認識したり、概念として操作ができるようになる。
概念として操作できるというのは、何かを伝える、何かが伝わることを可能にすることの土台でもあります。その意味で、言葉は「意味の器」のようなものとも捉えることができるわけですが、言葉にどのような意味込めるのかは人それぞれであり、だからこそ不便でもあります。自分が意図した意味が相手にそのまま伝わるとはかぎりません。
言葉は意味の器であると同時に、アンカー(錨)のようなものでもあって、ひとたび言葉にしてみると認識できる一方、その認識に囚われてしまう側面も持ち合わせているように思います。
混沌とした世界、状況を言葉に表して整理してゆくことは「秩序を生み出す」ことに他ならないと思うのですが、一度生み出した秩序を作り変えることは案外難しい。
言葉にすることでボヤけた世界の輪郭を浮かび上がらせつつも、囚われないためにはどうすればよいのだろう。そのようなことを思うわけです。
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