生命は「秩序と無秩序のあいだ」にある、ということ。
「安定ゆえに不安定、不安定ゆえに安定」
昨日はそのようなことを綴りました。
型にハマりすぎると窮屈で飽きてしまうし、型がなければそれはそれで方向性が定まらない状況が続いて疲れてしまう。そのようなことを思うわけです。
それはつまり、自然に任せておくと、いずれにせよ物事、事物は「崩壊に向かっていく」というのか「沈んでいく」ような力が働いているのではないか、と思うわけです。
崩壊するから再生がある。菌による物質の分解、循環を思わせる世界がある一方、生物の命は失われてしまえば元には戻らず、したがって崩壊に抗い続けることで生命は保たれている。
渦が絶え間ない流れの中に存在しているように、エネルギーや物質が継続的に散逸することで秩序が維持される。これは「散逸構造」と呼ばれますが、その射程は何も物質的な世界に留まらないと思うのです。
たとえば、「物事の考え方」も射程に入るのではないでしょうか。生物には肉体的な寿命があり、絶え間なく変化していきます。
肉体の成長と共に出来ることが増えてゆくことも、肉体の衰えと共に出来ることが以前に比べて少なくなってゆくこともある。
その肉体の変化を受け入れながらも、状態に合わせて生き方、考え方を適応的に変えてゆく「しなやかさ」が必要で、それには時として慣れ親しんだことを手放していかなければならないかもしれません。
つまり、身体のみならず、価値観や思考においても「散逸構造」という「しなやかさ」を保ち続けること、それは言い換えれば「心身の調和」を保ち続けることが生きてゆく上で大切だということを意味するように思うのです。
秩序と無秩序の境は「カオスの縁」と呼ばれますが、「変わらないために変わり続ける」という心持ちは「カオスの縁」という概念によってなめらかに包まれていることに新鮮さを覚えました。
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