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写真、景色、そして主客。

カメラのレンズの「向こう側」に広がる景色。景色が含む空気感、躍動感、力強さ、美しさ。たしかに惹きつけられる何かがある。

そして、レンズの「向こう側」に対して、レンズの「こちら側」には実際にその場の空気を体感し、景色を目にしている「誰か」がいる。

その意味で、写真とは「レンズのこちら側(人)と向こう側(景色)のあいだの共鳴、相互作用」と捉えることができるのではないだろうか。

もう少し広げてみると、主観と客観、主体と客体、つまり「主客」への問いにつながる。

日常生活の中で「物事を客観的に捉える」というけれど、では「客観」とは何だろうか?

【客観性】客観性は哲学的概念であり、知覚または感情または想像に起因する個人的主観から独立して真であるとする概念。

Wikipedia

Wikipediaによれば、客観性は「個人的主観から独立して真である」と定義されているけれど、では写真に映る景色というのは「客体」なのだろうか。

写真に映るスナップショットとしての景色は物理的には確定した色を放っているのかもしれない。けれど、それを受け取る人にとってその色がどのように映るのかはその人の色覚によるから「誰が見ても同じ」ではないだろう。

そう考えると、「写真」というのは、写真に映る同じ対象を目にしながら、その受け取り方の多様性を再認識するものなのかもしれない。それは人と人の受け取り方の差異もあれば、その人自身が出会う状態・タイミングによる差異も含まれるかもしれない。

「主客」というのは「あちらとこちら」という二項対立的な関係というよりもむしろ「あちらとこちらの間」であり、あちらとこちらを包摂する概念として捉えたほうが良いのかもしれない。

心や意識の存在を説明するのに、神経系をないがしろにする理論は、間違いなく破綻する。神経系は、心、意識、創造的な推論を実現する最大の功労者と言っていい。しかし、心や意識の説明を神経系のみに頼る理論もまた、間違いなく破綻する。残念ながら、今日の理論の大半がそうなっている。意識を神経の活動という観点のみからのみ説明しようとする無益な試みこそが、意識は説明不能な謎であるという思い込みを助長している面もあるのだ。

アントニオ・ダマシオ『教養としての「意識」機械が到達できない最後の人間性』

私たちの知る意識が、神経系を持つ生物にしか完全には生じない、というのは事実だが、意識が存在するためには、神経系の中心部である脳そのものや、神経系以外のさまざまな身体部位との豊かな相互作用が欠かせないこともまた事実なのだ。身体が神経系との融合にもたらすのは、その根本を成す生物学的な知性だ。つまり、ホメオスタシスの要求に従って生命を管理し、最終的には感情というかたちになって現れる、非明示的な能力と言い換えてもいい。

アントニオ・ダマシオ『教養としての「意識」機械が到達できない最後の人間性』

一方、神経系が身体との融合にもたらすのは、あとで明らかにするように、イメージを構成する空間的パターンを構築することによって、知識を明示的なものにする能力だ。神経系はまた、イメージとして描き出された知識を記憶し、イメージを操作するのにも役立つ。それにより、内省、計画、推論、そして究極的には記号の生成や、まったく新しい反応、人工物、アイデアの創造が可能になる。

アントニオ・ダマシオ『教養としての「意識」機械が到達できない最後の人間性』

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