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パワーとフォース。力とは何か?

何気なく使っている言葉には、本来は文脈に下支えられた多様な「意味」があるはずだけれど、その言葉に出会った時の「印象」が結びついてしまい、言葉の一面しか照らされないことがあるかもしれない。

一面しか照らしていないのかもしれないと感じる言葉に「強さ」と「弱さ」がある。

はたして、強いとはどういうことだろう?弱いとはどういうことだろう?

この問いについて、書籍『弱さの思想 たそがれを抱きしめる』(著:高橋源一郎+辻信一)からいくつかの言葉を引いて考えてみたい。

「強さ」を持つ概念の一つに「力」がある。同じ力でも、英語では「パワー(Power)」と「フォース(Force)」と複数の表現がある。もし力の概念が唯一あるならば、複数の表現を持つ必要はないわけで、そこには何かしらの違いがある。

 「パワー」は「フォース」と違って、内なる力のことです。たとえば、種子は木となる潜在的な力をもっている。それがパワーです。人間は誰でもブッダやガンディーのように、偉大な人になれるパワーをもっている。この内なる力がパワーであり、これこそが真の強さです。

『弱さの思想 たそがれを抱きしめる』

パワーとは「内なる力」のこと。

「種子は木となる潜在的な力をもつ」という例示は極めて示唆に飛んでいる。ここでいう潜在的な力には「実現可能性」というニュアンスが含まれているように感じる。

イメージとしては「内側から殻を破る」で、卵も内側から割れる事で生命が誕生する。パワーには生命性を感じ取れる。

 一方、フォースとは外なる力のことです。(中略)規律、法律、軍隊、武器、政府などによって、外から与えられる力 - それがフォースです。お金というフォースによって、それが他人に権力をふるうこともできる。
 フォースが他人への強制力であるのに対し、パワーは自分の内に働く力です。イエス・キリストは、パワーにあふれる偉大な人物でした。しかし彼は、「弱き者が世界を受け継ぐ」と言っていますね。この「弱き者」とはフォースをもたない人のことです。

『弱さの思想 たそがれを抱きしめる』

フォースとは「外なる力」とのこと。規律、法律などの例示がされているけれど、もう少し身近に考えてみると役職や役割も「フォース」と言えるかもしれない。フォースはいとも簡単に自分と切り離されてしまう。

フォースは「外から変える・強制する」イメージがある。卵を外から無理に割ってしまえば、中の生命は死に絶えてしまう。

 弱き者は、腕力もずる賢さもなく、花のように柔和で優しい。花はしかし、パワーにあふれている。花はそのパワーで人を魅了します。その香り、やわらかさ、美しい色彩によって。また、自らを果実へと変えるパワーもあります。この花の力はフォースとしての強さではありません。パワーは、柔和で、穏やかで、目立たず、控えめです。花はなんと謙虚でしょう。押しつけがましいところがありません。真の力とはこのように、控えめで優しいものなのです。

『弱さの思想 たそがれを抱きしめる』

花の力はフォースではなくパワーである。

「自らを果実へと変えるパワーもある」と書かれているけれど、果実は新たな生命の源でもあるし、他の生物に食されればその生物の命の源ともなる。

だから「パワー」は誰かに対して与えるものではない。自分自身をあふれるほどにパワーで満たすことで、そのあふれたパワーがいつしか自分の周囲に行き渡って、世界を充たしてゆく。

あふれるほどにパワーを満たす過程は、誰かを犠牲にすることなく、周囲との調和を保ちながら満たしてゆくことが求められるのかもしれない。

真の力とは控えめで優しいもの。この言葉が「弱さ」を捉えなおすきっかけになるように思う。


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