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コミュニケーションにおける「身体性の欠如」という問題

今日は『触楽入門 -はじめて世界に触れるときのように-』(著:テクタイル)から「触感の世界が忘れられている」を読みました。

「触感の世界が忘れられている」とはどういうことなのでしょうか?

私たちは毎日何かにふれて生活しています。何かにふれていることが意識されないということなのでしょうか。

これはどうも違うように思います。たとえば歩いて移動しているとき、意識を向けていなくとも、「蹴り出す足に対する地面の反発」として地面の感触を感じています。「意識すること」と「感じること」は異なりそうです。

「触感の世界が忘れられている」との著者のメッセージを解きほぐします。

生活が快適になり、身体性が欠如しはじめた

著者は「生活の快適性の向上」により「人間は身体を使った行為を避ける」ようになったと言います。

空調がととのっていて一年中快適にすごせるオフィス、歩きやすいように平坦に舗装された道路、汗をかくことなく移動できる乗り心地のよい自動車 - 絶え間ない技術革新の恩恵をこうむり、私たちの暮らしはかつてないほど安全で心地よいものになりました。このこと自体はよろこばしいことなのですが、しかし同時にこの流れは、怪我をしたり汚れたりする可能性のあること、すなわち身体を使った行為を、できるだけ避けるようになる過程でもありました。

「触感の世界が忘れられている」の原因は「身体を使った行為が避けられている」ことに根ざしていそうです。

これは「受動的に情報を受け取る機会が増加している」あるいは「情報が向こうから勝手にやってくることが増えた」ことにもつながっているように思います。

情報技術が発展する前、メールや電話が発達する前は、メッセージを送るためには身体動作・移動が不可欠でした。会いに行く。手紙を届ける。自分が主体となってメッセージを届ける必要があり、その反応として相手からのメッセージを受け取る世界でした。

一方、現代ではインターネットにアクセスすれば無数の情報が押し寄せます。テレビをつけるだけで、必要不要を問わず、一方的に情報が届きます。

「情報の受け取り方が受動的になっていること」「身体性の欠如」に直結しているのではないかと思いました。

ボディランゲージという言葉

著者は、オンラインのコミュニケーションに適応できず「心身分離」の状態に困惑する人も少なくないと言います。

 これまで人と会って話すことには、皮膚感覚が必ず伴っていました。しかし、SNS上でのつながりは、身体性を欠いたリアルタイムの交際を可能にしています。言葉だけがやり取りされて、相手の身体を見ることはない。まるで、頭だけすっぽりと宇宙服のヘルメットをかぶり、外部と通信をしているかのようです。(中略)一方で、決して少なくない数の人が順応しきれず、このような「心身分離」の状態に困惑しているのも事実です。

コミュニケーションの起点は「他者のコンテクストを理解すること」にあることを思い起こせば、コミュニケーションにおけるコンテクスト理解を妨げる一つの要因に「身体性の欠如」があるのかもしれません。

「この人が本当に伝えたいことは何だろう」と推し量る、察する。そのためには、相手が発する言葉だけではなく、相手の表情や仕草など一挙手一投足に意識を向ける必要がある。自分の身体のセンスを解放して、その場の環境に没入しながら、ちょっとした変化に気づく。

著者は以前、次のように述べていました。

触感とは、モノ(素材)の中に宿っているものだ、と私たちは考えがちです。しかし触るという行為は、人間の身体が対象の素材に触れるときの接触面の関係によって生じるものです。私は、素材・身体・心の関係の上に触感が生まれると考えています。

「素材と身体と心の関係の上に触感が生まれる」との言葉を手掛かりにすると「言葉と身体と心の関係の上にコンテクストが生まれる」とも言えるかもしれません。コンテクストとは「相手がどのようなつもりでその言葉を発しているか」「どのようなつもりでその行為をしているか」ということです。

つまり「言葉」と聞くと私たちはついつい読み書きしている言葉、つまり「自然言語」を無意識のうちに想起してしまうように思うのですが、本当にそれだけでしょうか。偏った見方なのではないでしょうか。

言葉には「身体の動きや仕草」によるメッセージ、ボディランゲージも含まれるはずです。この身体が発するメッセージこそが、本人も自覚していないコンテクストの核心なのではないでしょうか。


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