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イメージ、身体、そして自由。

頭の中にぼんやりと、あるいはハッキリと浮かび上がってくる「イメージ」とは、一体なんなのだろう。

人工知能の研究では、「fMRIによって視覚化した人間の脳の活動を機械学習で分析することで、脳内にあるイメージを実際に再現できるかもしれない」という問いのもと、「実際に頭に思い浮かべたイメージを画像に出力する」取り組みも進んでいる。

fMRIとはfunctional Magnetic Resonance Imaging(磁気共鳴機能画像法)の略称で、MRI装置を用いて脳活動を調べる方法のこと。MRI装置には強い磁場が働いていて、頭部や身体に微弱な電磁波を照射し、戻ってきた波(信号)に基づいて人体の断面の画像が撮影される。

このようにして脳の活動から生成された「イメージ」は、本当にその人自身がイメージしたことなのだろうかという疑問が湧いてくる。いや、そもそもイメージは生成される「映像」のようなものだけだろうか。

たとえば、楽器を演奏していると、ほんの少し先の未来における身体動作の可能性までも「イメージ」の概念に含まれる。そのほんの少し先の身体動作の可能性を予定調和的に引き寄せ続けながら、「思いどおり」の演奏を実現させていきたいと思いつつも、身体はたえずゆらいでいて、「完全」には思いどおりにならないからこそ、自分の想像を超えた場所にたどり着ける喜びもある。

もし、この世界に未知や意外性が存在せず、確定的な未来を歩み続けることが最初から決まっていたとしたら、そのような世界における「イメージ」はどこか寂しいものになるに違いない。

そう思うと、頭の中を漂う、あるいは身体に付随する「イメージ」は私たちに一定の幅の可能性を与えつつも、そこから逸脱すること、打ち破ることの可能性も含むものなのだと思う。

ふとここで「守破離」という言葉が降りてきた。経験の蓄積の総体に下支えられたイメージ。「守」とは整合性を取るという意味にも取れるかもしれない。もし環境が変われば、前の環境のもとで一貫していた体系の整合性は崩れ、新たな環境に適応するように進化し、新たな整合性を獲得していく。

生命は「対称性の破れ」から始まるのだけれど、イメージを持ちながらも囚われないことの大切さに気づく。生々流転。心はどこまでも、自由なんだ。

感覚情報に基づいて構築されるマップやイメージは、それと関連して常に存在する感情と並んで、最も豊富で多様な心の構成要素を成す。多くの場合は、これらが心的プロセスを支配することになる。

アントニオ・ダマシオ『教養としての「意識」機械が到達できない最後の人間性』

面白いことに、それぞれの感覚系は、それ自体では意識的な体験を伴わない。たとえば、視覚系、つまり人間の網膜、視覚経路、視覚皮質は、外界のマップをつくり出し、それぞれの明確な視覚的イメージを生成するのだが、それだけでそうしたイメージが私たち自身のイメージ、つまり私たちの生体の内部で生じたイメージだと自動的に宣言されることはありえない。また、それらのイメージが私たち自身の存在と結びつけられることも、意識されることもない。

アントニオ・ダマシオ『教養としての「意識」機械が到達できない最後の人間性』

存在、感情、認識にかかわる3種類の処理の連携した機能によって初めて、そのイメージを私たちの生体と結びつけられるようになる。文字どおり、イメージを私たちの生体へと参照し、その内部に位置づけることができるようになるのだ。そこまできてやっと、体験なるものが生まれる。この、重要ながらも日の目を見ない生理的なステップに続くものは、驚異としか言いようがない。いったん体験が記憶され始めると、感情と意識を持つ生物は、多少なりとも包括的な自分自身の生命の歴史を保持できるようになる。それは、他者や周囲の環境との相互作用の歴史といえる。

アントニオ・ダマシオ『教養としての「意識」機械が到達できない最後の人間性』

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