見出し画像

自閉的社交術としてのセルフインタビュー(準備編)


頭木弘樹さん、畑中麻紀さん、石田月美さんとツイッターのグループDMでなんやかんやと話していて、noteをやってみたい気が湧いてきました。私はいろんなことに興味がふわふわ湧くタイプなので、その点ではいかにもADHD(注意欠如・多動症)を診断された人という感じです。ADHD単発の人や、定型発達者(発達障害がない人のこと)だったら、かなりミーハーな生き方になっていたと思うのですが、幸か不幸か私には自閉スペクトラム症(ASD)が取り外し不可能の初期装備として与えられているので、非常に頑固で恐ろしく閉鎖的な側面も装填されています。そこで、noteに興味がありつつも、始めてみるにはなかなか至りませんでした。ADHD者としての私の飽きっぽい性質を、ASD者としての私のしつこい個性が警戒していたと言うこともできます。

ありがたいことに、私はいまたくさんの原稿を抱えています。企画がとおって刊行を予定している書籍(単著、編著、じぶんがメイン級の共著)は15冊くらいあるし、論文の寄稿や講演や対談をしてほしいと依頼される分野は、文学研究、哲学、宗教学、社会学、心理学、精神医学にまたがるようになりました。それらの作業に向かいあっているだけで、かなりの充実感を味わっているので、それ以外にどんな執筆行為を求めているのか、じぶんにもよくわからないところがありました。論文は書いているし、エッセイも書いているし、小説も書いています。一見するとnoteの出番はないような気がするのですが、なぜか何かを書いてみたいという強い思いがありました。

しばらく考えてみて、私は私に関心がある人たちが、私に何を求めているのかを知りたいのだと気づきました。私は基本的にじぶんに興味のある少数のものごとだけに興味があって、世の中のほとんどのことに関心が湧かないというつまらない人間です。博学だとか守備範囲が広いだとかと称賛されることもありますが、私はじぶんの狭い関心範囲のなかで広いだけで、本質的にはかなり狭い人間だというのが自己認識なのです。また、このような性状こそが、自閉スペクトラム症なのだとも思っています。そんなじぶん自身のことがとくに嫌だというわけでもないのですが、ときにはこれまでとは別のあり方を模索してみることで、人生に新しい風を呼びこめることは知っています。

それでは、noteでどういう内容を書いてみようと思ったのか。『みんな水の中──「発達障害」自助グループの文学研究者はどんな世界に棲んでいるか』(医学書院)、『イスタンブールで青に溺れる──発達障害者の世界周航記』(文藝春秋)、『ある大学教員の日常と非日常――障害者モード、コロナ禍、ウクライナ侵攻』(晶文社)で、じぶんをとことん深掘りしていくのは、楽しい実験のようで、自閉スペクトラム症の私にはもともと向いている作業の連続だったので、その点では「本領発揮」ではありました。他方、『発達界隈通信──ぼくたちは障害と脳の多様性を生きてます』(教育評論社)で仲間の発達障害者にインタビューしたり、『唯が行く!──当事者研究とオープンダイアローグ奮闘記』(金剛出版)で、自助グループ活動で出会ってきた人たちのことをフィクション化して表現したりした経験には、対他関係に関心の低い自閉スペクトラム症の特性に反している要素が含まれていて、それなのにその新しい作業が私を幻惑しつづけたということが、私には興奮するツボでした。『ひとつにならない──発達障害者がセックスについて語ること』(イースト・プレス)、『みんなの宗教2世問題』(晶文社)、『信仰から解放されない子どもたち──#宗教2世に信教の自由を』(明石書店)では、ふたつの路線を総合して、つまりインタビューをしながらじぶんを深掘りし、じぶんを深掘りしながらインタビューをするという作業に没頭できたことで、それまでの著作とは異なった達成感を得ることができました。

以上の記述から、みなさんは私という人間にとっては、なによりもまずじぶんが障害として抱えている自閉スペクトラム症との付きあい方が、一大問題なのだということをわかっていただけるのではないかと思います。この世に私が単体の究極的最強の完全生物として自立できていれば、じぶんの自閉スペクトラム症はそんなに問題にならないかもしれませんが、人間は群体として地球上に生息していて、私もそのなかに収まることで生かされているわけですから、私が全人口の1%程度が当事者と言われる自閉スペクトラム症という特性を持って生きざるを得ないという事実、つまり群体の一部として生活するのが向いていない特性を背負いながらやっていかなければならないという事実は、私の生存条件にとって大きな問題になってきます。

私はそんなわけで、自分の自閉スペクトラム症との付きあい方を、noteで新たに模索できるのではと期待したのでした。だから私のnoteが誰にとっておもしろいものになるのか、というのはひとつの難しい問題です。せめて私に関心のある人たちにとって、(少しでも)おもしろいものだと良いのですが。

前置きが長々となりましたが、私がnoteでやってみようと思ったのは、「セルフインタビュー」です。インタビューのテーマは、さしあたってツイッターで募集してみました。要約すれば、私が苦手としている他者との交流をセルフインタビューの形式で遂行してみよう、というのが私の「自閉」にふさわしいnoteの使用法だと考えた次第です。みなさんはこのアイデアをどう思いますか。

いま述べたことは、この文章を書く前から、あらかじめ想定していたものではなく、書きながらやっとこさ考えだしました。セルフインタビューという腹案なく、私は5月15日にツイッターで「noteに何か連載したいけど、何を連載したらおもしろいんだろうか。「こういうものを読みたい!」という内容のものがあったら、どなたか教えてください。」と投稿しました。それに対して、青山誠さんは「質的研究における記述の可能性みたいなのを、横道さんの筆で読んでみたいです」と、中村龍海さんは「ギフテッドの世界(特異な才能があることによるメリット/デメリット、現代日本の教育・社会におけるボトルネック、望まれる理想的な環境・条件)などについてぜひ拝読したいです」と、Yoshiさんは「唐沢俊一みたいなサブカルネタ❗️(ニーズ低いでしょうが…)」と、トナーさんは「「みんな水の中」の「小説風。」のようなお話が好きです。おもしろい と思います。読みたいです」と、しのぴーさんは「ドイツ文学の他、漫画、アニメ、特撮、ゲームなどのサブカル系の論評をお願いします」と返信してくれました。これらの要望に応える上で、私にとって最良の方法は何か、と考えながらこの文章を書いていき、私の心の声から出てきた回答が「セルフインタビュー」だったのです。

そのようなわけで、次回からセルフインタビューをやっていきます。「ほかにもこんなテーマでセルフインタビューしてほしい」という要望がありましたら、どうかお伝えいただけると、うれしいです。私に関心のある人に満足していただければ、ほんとうにうれしいことです。







この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?