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過去を振り返って、自分を取り巻いていた親戚をまとめました。たまに、お世話になった人達を思い出すのも良かったと思いました。

親父は、四兄弟、長男、次男、三男、四女の長男でした。
次男: 四日市郊外で、中華料理店を経営し、早くから独立していました。42歳で他界し、奥さんは、長女を連れて実家に戻り、親戚付き合いは無くなっています。
三男: 板前さんで、私が小学校低学年までは、実家に同居しており、子供ができた時に、別の家を建てて独立しています。
四女: 嫁いで、私と同年代の女子を産んでいます。しかし、精神を病んで離婚して、戻って来ていました。娘さんは、旦那さんが引き取って育てています。親戚付き合いはありませんが、娘さんとは中学の時に一度会っています。

祖父は、親父が子供時に亡くなっており、祖母が実家で旅館を営んで、親父ら兄弟4人を育ててきたと聞いています。
祖母には、弟さんが居て、お菓子屋を営んでいました。あられやせんべいなどの問屋が中心で、田舎あられなどを自分のところで焼いていて良い香りがしていました。自転車で15分くらいの距離でしたが、子ども向けではなく、あまり行ったことはありませんでした。
ただ、そのおかげで、実家には、缶に入ったあられやせんべいがたくさんありました。特に、田舎あられは、めちゃくちゃ美味しかった記憶があります。
友達が遊びに来た時のおやつは、この田舎あられが定番になり、みんな喜んで食べていました。
今ほど、美味しい物が少ない時代だったせいかも知れないが、記憶上では、あんな美味しい田舎あられは食べた事がありません。
ちなみに、湿気ってきたら、醤油を少し垂らして、お茶をかけて、食べるのも楽しみでした。
一方、母方の親戚も、車で15分以内の所に住んでいました。母親は、3兄弟の一番下で、上に二人の兄が居ました。母の両親は子供の頃に亡くなっており、その父の弟さん夫妻に育てられたと聞いています。
母の叔父にあたりますが、育ての親になります。その叔父さんと、母の一番上の兄が、四日市郊外で鉄工所を経営していました。二十人ぐらいの社員さんが働いていました。
グラインダー、旋盤、ボール盤、溶接機などが数台ずつ並んでいて、十人ぐらいの職人さんが忙しそうに種々の金属製品を造っていました。
当時、プラモデルでのレーシングカー(スロットカー)が流行っていました。競争するために複数の車線(レーン)を持つコースがあり、レーンの真ん中にスロットと言われる溝があり、溝の両側には、電気を供給する電路があり、レーン毎に片手で使える電流調整コントローラが接続されています。そのコントローラの押し込み具合で、電流の強さ、すなわち速度が調整されます。
スロットカー底面の前輪の間には、レーン溝に嵌るガイドが付いていて、ガイドには、レーンから電気を伝える集電ブラシが付いています。ガイドは溝より小さいので、速度を上げ過ぎるとカーブでは簡単にコースアウトします。
家庭用として、2レーンの大小いろんなタイプのおもちゃのレーシングコースが売られていました。今でもAmazonで売られています。(コースアウトし難い磁石タイプと思います)当然、家にはおもちゃとしては、一番大きなコースがありました。
また、市内には、8レーンぐらいのスロットカー専用レーシング場が、数か所ありました。30分で、数100円くらいだったと思います。
基本は、1/32市販プラモデルですが、マブチモーターの種類、ガイドの大きさと表面研磨具合、スロットカーの重さ、タイヤの回転抵抗、ステアリング機能、などを改良してコーナーでの飛びだしを防ぐように改良します。
そのため、勝つためには、お金もかかり、ほとんど大人だったように記憶しています。
私の場合では、叔父さんの鉄工所にお願いして、種々改良してもらい、家でコントロール練習もしていたので、大人の中でも結構、勝てていました。
後年には、磁石で外れ難くして、コースアウトしないように、子供向けに改悪? され、つまらなくなり行かなくなりました。
昔良き 昭和時代の思い出です。
母方の親戚の話に戻します。
鉄工場の常務である母親の一番上の兄は、市役所前の広い道路を挟んだ反対側に住んでおり、そこで従業員の寮も営んでいました。5人くらいの若い男子が寮に住んでいました。
後ほど、出てきますが、私は、その寮の一室に一時期お世話になりました。
また、母の2番目の兄は、その近所で、化学薬品の問屋さんを営んでいました。十数人ぐらいの社員さんが働いていました。
後程、説明すると思いますが、その叔父さんに私の就職先を斡旋してもらう事になります。叔父によるコネ入社になります。
私にはお爺さんと言う存在が無かったので、母の叔父さんである鉄工場の社長が、本当のお爺さんのように想えて、自転車で30分くらいの距離でしたが、小学校時代は、一人でも良く遊びに行きました。
そのお爺さんは、血筋的には遠いですが、本当の孫のように接してくれました。
また、お爺さんには、長男と次女と二人の実子がいました。次女は、鎌倉に嫁いでいきますが、埼玉に就職した後になりますが、お世話になります。
母親の兄二人、そのお爺さんの長男、その奥さん達とその子供達と、母方の親戚とは、本当の家族のような関係になりました。
私が一番上だったですが、3~10歳くらい離れた子供ら6名(一番下は男だが、後すべて女性)が居ました。一人っ子の私は、姉妹が欲しかったので、ちょうど良い従妹達になりました。また、向こうにとっては、男の子が居なかったので重宝されたと言う事と思います。
また、リカちゃん人形の着せ替え洋服や周辺グッズなどを、おもちゃ屋から盗んで持っていった事も喜ばれたと思います。
7名の子供らの中で私だけが、苗字が異なりましたが、小学校から高校まで、ほんとうの家族のように接してもらって、ゲームをしたり、色んな所に遊びに行ったりして楽しみました。
母親が亡くなって、四日市の実家を引き払ってからは、疎遠になっていますが、子供の時から母親が亡くなるまで、本当にお世話になりました。
改めて親戚の事を思い出すのに良い機会になりました。一度、自分の過去を振り返るのも良い事だと思います。

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