見出し画像

パラスポーツは批判してはいけないのか?アジア大会の報道数激減から考えた。

今年の3月にパラスイマーの久保大樹さんとVoicy上で対談する機会をいただいた。

なかなか身近に感じることが少ないパラスポーツの実情、そして久保さんがギランバレー症候群からパラスイマーになった経緯などお聴きする機会に恵まれ、大変有意義だったと感じている。

その縁もあって、久保さんのツイッターを追い、パラ競技に身を置く方がどのような形で活動されているかをリアルタイムで確認することが出来ている。

そしてその久保さんが先日アジア大会に参加されたということで、その様子を見守り続けていた。

身近な方がそのような大きな大会で活躍されているのは心強く思うし、自分のことではないのにとてもうれしい気分だった。応援しているっていうのはこういうことなのだと思う。

ただ、一方で東京パラリンピックの時よりも報道の規模が縮小されたという話も報じられた。

これに関しては協議に関わるものとしては死活問題だし、あの東京パラリンピックだけだったのかよと残念を通り越して怒りを感じるなんていう話も聞いた。

東京オリパラの時は「オリンピックパラリンピック」という名称でよばれる機会も多く、オリンピックとパラリンピックは並列として語られていた。

実際にメディアにもパラアスリートの方が多く登場しており、パラリンピックの地位向上というのはここまで進んだものかと驚いた。

ただ。

今の状況を見る限りでは東京オリパラの頃と比べるとかなり退行しているのが実情ということで、これは久保さんに関わった身として、そして久保さんの動向を追う身としても残念と感じた。

そんな中、かなり興味深いことを仰られている方がいた。
それは、

今の状況だと競技としての魅力が伝わっていないというだけだから、それは受け止めるべきだ。不遇なのではない。マイナースポーツの取材が少なくて文句を言うだろうか?

という趣旨のことだった。
確かにこれはなるほどと思わされた。

考えてもみて欲しい。

競技に魅力があれば、取材は付いてくる。
何故なら、取材に価値があるからだ。

取材することに対して価値があるからこそ、本来は報道が発生する。言い換えると、これは大変厳しい意見になってしまうが、報道サイドからするとパラスポーツは今の規模の報道が適正と理解していることになる。

競技の普及に向けて報道は必要不可欠だが、そのためには競技がまずは魅力的でなければいけない。

東京オリパラの頃にあれほど取材があり、メディアにパラアスリートが登場する機会に恵まれ、そして今この現状なのだ。つまり、東京オリパラは特需だったと理解せざるを得ない。

不遇を嘆くことも出来る。そして、そこに差別という言葉を用いることも出来る。パラスポーツの側からすると、そんな言い方の一つも出来る状況ではあると思う。

ただ。

差別や不遇ということを声高に叫ぶことによって報道が戻ってくるような競技は果たして魅力的なのだろうか?

何故報道が少なくなってしまったのか、ということを考え、その原因を突き止め、より競技として魅力的になるように尽力することが大切ではないだろうか?

この話を聞いた時、パラスポーツというものを身近に感じている一人のスポーツライターとしてはそのように思った。

競技としての真の発展は、特需の先にあると思う。特需は一つの機会だ。その機会を活かすか殺すかは競技者と協会に懸かっている。

他の競技からすると、特需すら享受する機会は殆ど無い。オリンピックに出ようとも、その後4年間の中で報じられる機会は選考会くらいだろう。

むしろ私としては、報道が激減したという今回のニュースはパラスポーツの現状を知るうえでは有意義な出来事だったとも思う。何故なら、その過酷な現実はそう簡単には見せてもらえないからだ。

競技としての魅力を伝える上で改善が必要だ、とか、正直言って競技の面でつまらないところがある、という点については、競技に関わるもの以外が指摘するとそれは失礼とみなされることがある。

かなり前の話だが、長野オリンピックの時に当時の市長だったと思うが「スピードスケートはみずすましみたいだ」と発言して顰蹙を買ったことがあった。確かその後で「みずすましみたいにスイスイ動くという意味だった」と発言して更に事態が悪化したと記憶している。

確かにこの発言はオリンピックを開催する自治体の長としては配慮に欠けているし、リスペクトも感じない。私が市長ならこのようなことは口が裂けても言えないだろう。

勿論この市長の公の場での発言を肯定する気は全く無いが、競技に対してネガティブな印象がある人が居るのであれば、改善しなければその競技の未来はない。

だから、差別や不遇ということで今回のことを終わらせてはいけないと私は思う。

差別的な意識から競技を否定することはあってはならない。ただ、率直な気持ちを収集し、そこに向き合う機会は作らなければならない。

恐らく報道の数が激減した理由はあるはずだ。ワールドカップもWBCもあれだけの報道陣が割かれているのに、パラの人数を減らしたということに対しては明確な理由が存在しない訳がない。

私は少なくとも、パラスポーツというだけで及び腰にならないような、そういう意識で見るようには心がけている。

ただ、発言に対しては及び腰になっている。
何故なら、どこで誤解が生まれるか分からないからだ。

サッカーに対して大げさに痛がるのはダサいとか、時間稼ぎをするのはズルいとはどんな場でも言える。競技者に対してもオブラートには包むが、言えないことは無い。

ただ。
パラスポーツとなると私はそれが出来ない。
何故なら、自分の身が可愛いからだ。

本来率直さというのは差別とは別のところにあるものだと私は思う。ただ、率直に言えば言うほどに誤解は生じ、差別と糾弾されることがある。それが何より怖い。

であれば、パラスポーツよりも別の競技の話をしていた方が怖くないし、楽しいと言える。その怖さこそがパラスポーツを観戦し、語るうえで最も大きなノイズであると感じている。

久保さんに出会うことによってその部分が解消した部分はある。ただ、残念ながらパラスポーツよりも私にとっては相撲やそのほかのメジャースポーツの方が楽しいのはその辺りの怖さが根深く存在していることが大きな理由だ。

この記事を書くのも相当配慮している。どこでどのような角度から怒られるか分かったものではないからだ。そして、私がこれを書くメリットなどほぼないことも承知している。

ただ。
このようなトピックを及び腰になることそのものが今後のパラスポーツのために良くないことだと私は感じた。

余談だが、3年前に亡くなった私の父は2003年に脳梗塞になり、17年間半身不随という生活だった。あの一件以来父の経営する小さな会社は傾いた。

ちょうど舞台照明というものが曲がり角に来ている時期だったこともあるが、父が障害を持ったということもまた、仕事の依頼が激減した一因であるとも聞いている。つまり我が家もまた、障害の影響を大いに受けたと言える。

障害が近しいところにある身だから、この語るのが非常に難しいトピックに対して言葉を選びながらも話してみようと思ったのかもしれない。

もっとパラスポーツをオープンに話そう。
配慮は必要だが、遠慮は要らないと思うのだ。

■Voicyチャンネル:
音声配信を毎日1回行っています。

■公式サイト:
相撲のブログやイベント情報など、更新しています。
場所中は1日1本、場所後は週に1回程度での更新です。


この記事が参加している募集

スキしてみて

よろしければサポートお願いいたします! 皆様のために今後使わせていただきます!