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学校は誰が為に鐘を鳴らす

視聴映画:「デタッチメント~優しい無関心~」

どうも。そんなこんなでちゃんと初投稿です。

というわけで、「デタッチメント~優しい無関心~」
この映画はアメリカの教育現場で起きている問題を教師の視点から見つめ、また教師それぞれが抱える葛藤を鮮明に描いた作品。

この映画を見たきっかけとしては、教育問題に関心があったことと、もう一つは主演のエイドリアン・ブロディが好きだったからですね。ブロディが出てる作品は「戦場のピアニスト」ぐらいしか見たことがないんですが、それでも彼の孤独を感じさせる、都市の真ん中にいても荒んでしまった土地の風景を想起させるような立ち振る舞いが大好きなんですよ。そんな演技がこの作品でもきれいに出ていて、もう最高でした。

というわけで、この作品のあらすじをささっと
 代理教師(非常勤講師のようなもの)としてアメリカ各地の高校を転々としていた英語(たぶん日本でいう国語)教師ヘンリー・バースが次に赴任した高校は、荒れ放題で、成績は他校と比べても低い、いわゆる不良高校であった。教師たちは、それぞれ生徒の将来を考えて行動しようとするも、生徒は彼らについてこようとはせず、また生徒の保護者たちも学校に子供のことを投げっぱなしで、言ってくるのはクレームだけ。また、彼ら教師自身も、それぞれ悩みを抱えていて日々フラストレーションがたまっていくばかりである。ヘンリー自身も、過去の出来事からいまだに悩みを抱え、生徒も含め積極的に人と深い関係になろうとはしなかった。そんなヘンリーはある夜売春で日銭を稼いでいた少女エリカと出会う。エリカを保護することにしたヘンリーは、彼女と生活していく中で、次第に変化を見せていく。

作品の感想
正確に言うとネタバレになるため、控えますが、とにかく無情だった。誰も救われないと言えばそうなるかもしれない。どれだけが教師一人で頑張ってもそれぞれキャパがあり、周りが協力してくれなきゃどうしようもなかったり、そもそも教師一人の手におえるものではなかったりする。まさに「暖簾に腕押し」って感じ。そんなどうしようもない環境で必死に抗おうとする人たちのその「腕押し」を描いていて、悲しくなった、

この作品から読み取れたこと 
 この映画は、とにかく教師も生徒やその親たちと同じ「人」であることを強調していた作品だと思うんです。教師一人ひとりにもそれぞれ生活があって、例えば夫婦生活がうまくいっていなかったり、親の介護があったり、孤独でつらい思いをしていたり、と学校とは関係なく個人で抱えている悩みもある。それでも彼らは生徒の将来を考えて、必死に授業をし、問題があれば指導をし、いじめなどの生徒間トラブルを解決できるように尽力もする。しかし、成績は上がらず、生徒は言うことを聞かず、いっこうに態度を改めることはない。保護者たちからは生徒に何かあれば教師のせいにされ、逆に保護者達に学校を良くしようと協力を仰いでも誰一人関わろうとしない。全て投げっぱなしである。
 「教育」というのは誰が担うべきものなのだろうか。教師であろうか、親であろうか、それとも国であろうか。この際、そもそも学校教育の是非について触れることはしないが、学校で生徒を教育するとなった以上、学校教育を作っていくのは誰であろうか。親からしたら、「学校に預ける」と、その子供は一日の大半を学校で過ごすため、そこで「勝手に育てていってくれる」と思っているのかもしれない。しかし、子供は独りで勝手に育っていくわけではない。当然家でのことも影響が出てくる。学校で態度が悪いことも、もしかしたら家でのことが関わっているのかもしれない。そう考えると「学校」における生徒を構成するのは教師だけでなく、親も含まれるだろう。また、国に関しても、生徒に一定の成績を求め、それが達されなかったら教員の責任にする、というまあなんとも身勝手なようにも思える。教員養成のプログラムを作っているのは国なのだから、自らも見つめなおす要素があるのではないだろうか。
 現状は、明らかに教師の負担、責任が大きすぎる。子供が自殺すればすぐ教師のせい、いじめが解決できなければ教師のせいと、もちろん責任の一端はあるだろうが、全てがすべてそこに原因があるのではないことぐらいはわかるのではないだろうか。中には、まったく手を打とうとしない教師もいるだろうが、大半はそうではないだろう。大半は生徒をどうにか良い将来へ導こうと思い、尽力し、その結果できる者もいれば、潰れていく者もいる。そういう大半の「自己犠牲」から成り立っているこの「学校教育」はおかしいのではないだろうか。そういうことをこの作品は伝えたかったのではないかと、個人的には思った。

こんな感じで〆たいと思います。ではまた。

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