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【シリーズ連載・Guilty】Unbalance #10

~カン・チェヨン


月曜の朝。
今日は負けた。
野島先輩の方が先に出社していた。

野島先輩は新人の頃から誰よりも早く出社していると聞いていた。それが先輩になっても続いた。私は先輩より先に出社しなくてはならないと、もっと早く着くようにしたのだが、野島先輩がムキになって更に早く来るようになった。
そんな "早出合戦" を繰り広げていたら、課長に「お前らいい加減にしろ。普通に来い! 無駄に早出手当持ってくな!」と怒られた。

それでも怒られない程度のギリギリの早い時間で、日々熾烈な戦いを繰り広げていた。今日は私の負け。

「おはようございます」

先輩の正面でペコリと挨拶すると、勝ち誇ったような笑顔で「よぉ、おはよう」と言った。明日は絶対に勝つと心に決めた。都心の朝の交通は、ちょっとした事が要因で1〜2分はズレるもの。ドアが閉まるのが遅いとか、カバンが挟まったとか人が挟まったとか。
…。


私には今2人の先輩がついていて、月曜日は野島先輩の日ではない。
別の先輩と日中4社の外回りをし、帰社して庶務を行い、会社を出たのは19時半。野島先輩は朝に会ったきり、別行動で会うことはなかった。


節約のために夜は自炊する。スーパーに寄って食材を買い、アパートの狭いキッチンで調理をし、小さな丸テーブルでワールドニュースを観ながら食べていると、カバンの中の会社携帯が鳴った。咄嗟に時計に目をやると21時過ぎ。こんな時間に誰だろうと思いカバンから取り出すと、野島先輩からだった。

「野島さん、どうされましたか」
『カンちゃん、A社の担当、替わってもらうことになった』

A社とは、早い段階から私にファシリテートを任せてくれた会社だ。

「急ですね」
『うん。木曜定例会だろ。そこではもうカンちゃん1人で行ってもらう。今日中に俺から担当者変更の連絡を入れておくから』
「急ですね」

だって、それ以外の言葉が出てこない。時計があと一回りもしない内に会社で顔を合わせることは間違いないのに、なぜ、今。

「先輩、残業ですか?」
『まぁね。じゃ、そういうことで』
「明日、詳しい引き継ぎ、しますよね?」
『うん? あぁ、もちろん。木曜定例の前には必ず』

そう言って電話は切れた。

翌朝。出社すると野島先輩の姿がない。よし、今日は勝った。心の中でガッツポーズをした。
しかし、同期が出社し、他の先輩が出社し、課長まで現れたのに、野島先輩はまだ来ない。

「課長、野島さんはどうされましたか?」
「あぁ、さっき連絡が入って、今日は直行するってよ」
「直行? 聞いてませんが」
「言ってないからでしょ」

昨夜、あんなに遅くにわざわざ連絡してきたのに、そんなこと一言も触れていなかった。
私に直接言えない何かがあるのだろうか?

「課長、昨夜野島さんから連絡があって、A社の担当を引き継ぐと言われたんです」
「お、ついに。まぁ、もう7月だもんな。野島にしてはじっくり時間かけた方だ。それにカンちゃんは優秀だから、野島より安心して任せられるよ」
「言い過ぎです」
「正直アイツはさ、ちょっと強いとこあるだろ? 相性が合わない所もあるからさ。中に引っ込んでもらおうと思っているんだ」
「どういうことでしょうか?」
「外回りを減らすってこと」

私は大変なショックを受けた。どういうわけか脳内で『左遷』という文字が岩のように落ちてきたからだ。

「左遷ですか? 野島さんを営業から外すのですか!?」

思わず大きな声を挙げてしまった。周囲の注目を集め、課長は大いに慌てた。

「シーッ! カンちゃん声が大きいよ。あー、みんな。今のは誤解だから、誤解」
「あ…申し訳ありません」

課長は手招きし、近づくと声をひそめて言った。

「そういうことじゃなくて。部署はそのままで、教育係として後輩の指導・育成をしてもらうんだよ」
「教育係、ですか」
「そう。性格は置いといて、アイツは後輩指導には向いてるから。真っ直ぐすぎて歪んでるアイツの性分は表に出るより裏方の方が効果が高いんだ。わかる?」

あまりよく分からないが、左遷でなくて良かった。

「でもそうなったら、給料が減ると言って怒りそうです」
「カンちゃんさすが、野島のことよく知ってるね。そう言われないように色々考えてるよ…って人事のことだからあまり詳しくは言えないけど」

充分、詳しく話したと思われたが、部署がそのままなら私は野島先輩の指導をこれからも受けられる、ということになる。

私は自席から野島先輩の携帯に電話を掛けたが、繋がらなかった。

「営業中でしょうか」

独り言を言って切る。引き継ぎ、今日のいつしてくれるのだろう。

午後。14時を過ぎても野島先輩は戻って来ない。午前中に既に3回電話を入れているのでしつこく思われたら嫌だなと思い、メッセージを送った。

何時に帰社されますか。引き継ぎの件、お待ちしています。

連絡が入ったのは16時近かった。ちょうど会議中で出られず、折り返すとようやく繋がった。

『カンちゃん、ごめん。遅くなって』
「野島さん、今どちらですか?」
『出先。今日はちょっと戻れないんだ』
「野島さんはノータリーンですか」
『それを言うならノーリターンだね』

横で聞いていた同僚が、私の誤爆に飲んでいたお茶を吹き出している。目の前のキーボードが故障しないよう祈った。
あぁ、カタカナはややこしいのだ! 誤爆テロリスト!

『明日は出社するから。明日、都合付きそう?』
「私、今日野島さんがいらっしゃる所まで向かいますから、今日出来る所までお願いしたいです」
『えっ…やる気出し過ぎでしょ…』

意外にも野島先輩の声は前向きではなかった。
渋々といった感じで待ち合わせ時間と場所を指定された。

「課長、引き継ぎのため外出してきます」
「ん? 引き継ぎ?」
「野島先輩を捕まえました。では!」

キーボードを逆さに振りながら同僚が呆気に取られて私を見上げている。構わずラップトップを慌しくカバンにしまい、社を飛び出した。
テロリストは素早く現場を去るものだ!

そこは私の知る限りのどこの得意先にも近くはない、首都高の高架近くにある、古めかしいセピア色の喫茶店だった。
一番奥の席で入口を背にして座る白いシャツの背中が野島先輩だとわかったが、やや違和感を覚える。
髪がボサボサだ。

「野島さん」

駆け寄ると顔を半分だけ振り向かせ、向かいに座って、と促す。

と、腰を下ろしてびっくりした。

ノータイでシャツのボタンは2つほど開いており、裾はスボンからはみ出している。クールビズとは言え仕事中の成りではない。

…が問題ではない。

「…どうしましたか…顔…」

野島先輩の左頬には白い大きな湿布、しかしそれで覆いきれない紫色の痣が口元、更に目の縁まで達している。首にも大きなガーゼが貼られていた。

「ちょっとね」
「ケンカですか」
にやられたんだ」
「野島さん、犬飼っているのですか? 聞いてませんでした」
「言ってないし、飼ってないからね」

テーブルの上には野島先輩のラップトップが開かれている。

「こんな面下げて会社も営業先も行けないだろ。だから遠隔で業務中」
「野良犬ですか。相当な大型犬ですね…。狂犬病の予防接種は受けたのでしょうか」
「日本にはもうほとんど野良犬はいないと思うよ。その事はもういいから。引き継ぎするんだろ」
「あ…はい」
「とは言え大した内容でもないけどな。同行してもらっている間にほぼほぼ理解出来てただろ? 訊きたい事は?」

私は疑問点や不安に思う事を伝え、野島先輩は一つ一つ丁寧に回答をくれた。

「木曜日定例で挨拶されますよね」
「俺は行かない。この面じゃ行けないだろ。日を改めて伺うと伝えてくれ」
「課長が、野島さんは外回りメインから内回りメインになると聞きました」
「俺は山手線かよ」

呆れた顔をした先輩は「課長は口が軽いな」とため息をついた。

「営業にあまり出なくなるんですか。先輩のような素晴らしい営業マンが勿体無いです」
「俺は素晴らしくないよ。カンちゃんの方がよっぽど」
「でも課長の言うように、野島さんが後輩を育成したら、野島さんのような優秀な営業マンが量産出来ますね」
「量産とか勘弁してくれよ」
「私は野島イズムを引き継いで立派な営業マンになるつもりです」

野島先輩はやや目を丸くして私を見た。やはり顔の左半分が痛々しい。

「そしたら新人の教育係は、そのうちカンちゃんに任せた方がよっぽど素晴らしい人材が育つだろうな」
「そんな事ないです」

色の薄くなったアイスコーヒーをストローで一口吸い、先輩は笑顔を浮かべた。痛むのかすぐに顔を歪めたが。

「そりゃ俺だってまだまだ直接収益を上げる仕事がしたいし、海外に飛び出して実力をもっともっとつけて稼ぎたいよ」
「辞めたりしませんよね」

うちの会社は大手ではない。キャリアアップのために、ある程度力をつけた社員が大手に転職していったのが何人もいると聞いた。
野島先輩はまさにそんなタイプに思えた。

しかし。

「…辞めたりはしないよ」
「良かったです」
「カンちゃんこそ辞めるなよ」
「野島さんのような営業マンになるまでは辞めません」
「なったら?」
「その時考えます」
「じゃあすぐ近い将来だな」

もちろん、グズグズやるつもりはないから、近い将来であるべきだと思う。

それよりももっと早く、野島先輩の顔の腫れが引いてくれることをまず願う。

野島先輩は犬にも好かれてしまうんだ。犬は人の善し悪しがわかると聞いた事がある。その犬はまさに見抜いたのだ。しかし行き過ぎた愛情表現が、先輩を傷付けた。

悲しい。

「その前に、カンちゃんにひとつ頼みたいことがある」

野島先輩の顔が瞬時に引き締まった。"仕事の顔" だ。

「何でしょうか」
「極秘任務。誰にも言ってはいけない。いい?」
「え~、楽しそうですね! 何でしょうか?」

周囲に人もいないのに、先輩は身体を近づけて更に声を潜めて話しだした。





#11へつづく


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