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田舎の一お母さんが『鬼滅の刃』を読んで勝手に受け取ったメッセージ

鬼滅があまりにも流行ってるので感想・考察も数多あり、自分が書く必要も無いかなと思いつつ。最終巻に感銘を受けたので、ちょっと真面目な自分なりの感想をまとめておきます。

以下、ネタバレを気にする人は回れ右してね。

私としてはまず、吾峠先生のモラルと優しさへの絶対的信頼感があります。そして歴史(古事記や説話集)に詳しそうなモチーフ選びのセンスに惹かれてます。作品の底辺に流れる仏教思想が大人にも受け入れられる統一した世界観を作っているとも思います。ジャンプの作家さんなので少年マンガがお好きなのでしょうが、少女マンガもきっと読んでそうなウェットなモノローグの情緒、かわいい絵柄と突如挟まれるユルいノリが愛おしいです。児童文学のような「これからの子供たちには優しい世界で生きて欲しい」という、子供へ向ける眼差しの暖かさ、も勝手に感じます。そのあたりが女性受け、お母さん受けするのでしょう。

というわけで、お母さん目線で『最終巻の結末の尊さ』について論じておきたい。

最終巻、鬼滅の勝利の決定打は『炭次郎が人を喰う鬼になることを選ばなかったこと』なんですよね。
『縁壱を上回る剣技を身につけて、無惨を倒した』とかじゃないんですよ。主人公が敵よりも上回る力を得て解決、ではなくて、主人公が人との縁を繋いで、裏方の人たちも含め全員の力で無惨を倒して、更に、主人公が鬼にされるけど抗って、元の自分に戻る。そこで終演。
炭次郎が『鬼になることを選ばないですんだ』のは一つは煉獄さんがそう指し示したから。もう一つは炭次郎の強くなる理由が「ねずこを人に戻すため」という他者の為だから。一巻冒頭で義勇さんに叱咤され「優しいだけでは妹を守れない」と悟り、鬼殺隊に入った炭次郎だけれど、力を得るのは手段であり目的ではないことを見誤らなかった。そして「人を食べない鬼」として兄と一緒に戦ってきたねずこは今度は、鬼になった兄を戻そうとする。炭次郎はねずこと仲間たちの腕に引かれて戻ってくる。相互に信頼があるからこそ、炭次郎は横でごちゃごちゃ言う無惨の言葉に耳も貸さない。『蜘蛛の糸』を彷彿とさせるような構図で、全く正反対の概念を描き出す見事さでした。

『鬼』って現実世界でいうとなんだろう?

私は『鬼』のモチーフの一つに『疫病』をイメージして読んでました。病は昔から連面と人々を苦しめていたのだけど、時代を経て大正時代に薬の開発などにより滅すことができた。現代は予防接種の普及などで、昔の大変さなど知らずに私たちは過ごすことができてる。といいつつ『コロナ』なんて新な鬼も発生しているのだけれど、現代を生きる私たちは理知的に対処できるであろう、と信じたい。

『無惨』はなんなのかというと、『究極のエゴイズム』だと思います。それが『他者を思う気持ち』に負ける。

さて、最終巻では
『鬼』が悪なのではなく『人を喰う鬼』が悪なのだと明確に区別されています。
つまり『鬼』の性質を持っていても、ねずこ、炭次郎、ゆしろう、にゃんこ、はセーフなんです。
珠世さまは残念ながら、地獄へ行かなければならなかったようですが、しのぶさんと共同研究をしたことにより『仲良くできる鬼』というポジションを獲得してます。

『人を喰う鬼が悪』つまりは『他者を殺しちゃダメ』ってことです。
竈門兄妹が人を喰う鬼にならなかったってことは、家族を殺されたから自分も他者を殺す、奪われたから奪う、という考え方にはならなかったと言い換えられます。
基本的で大事な概念だと思います。

では『鬼のいない平和な世界』とはなんなのかというと、そもそも鬼が生まれてしまうような理不尽な不幸、病気、貧困、差別、等々が極力ない世界だと考えられます。現代は、大正時代やその前の時代から比べれば、そういったものは少なくなっているはずです。でも皆無ではありません。天災などに突然襲われることもあります。今この時にも辛い思いをしている人は多々いるでしょう。でも、人々が自身のエゴに過剰に囚われず、他者の為にそれぞれ生きれたら。きっと誰も『人を喰う鬼』にならずにすむのではないか?そして未来を思うとき、更により良い方向へ時代が進むように、そんな願いが込められたエンディングだと感じました。

炭次郎の子孫で炭次郎にそっくりな炭彦が、次男でのんびりした性格だっていうことが感慨深いです。優しくて素直な子が無理に戦わなくてよい世界。
この平和が、幸せが、ずっと続きますように。

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