うっちーって何者💭

お越し頂きありがとうございます!

うっちーは1987年(32)東京出身、在住の女です。

生い立ちや数々の挫折と挫折と、その教訓をお伝え出来たらと思います

長いのでお時間ある時にちょくちょく見て頂けたら嬉しいです✨

私うっちーは、母親と兄3人の末っ子として産まれました。

母は女で一つで4人の子供を育てるうちに過労で倒れてしまい、私たち兄妹4人は養護施設に預けられる事になりました。

当時4歳の私は何が何だか分からず周りは知らない大人と子供達で「今日からここがお家だからね」と伝えられ不安で仕方なかったのを覚えています

ご飯の時間が来て食堂に向かうと、そこに兄達の姿を見つけ、同じ空間に居れる事に少し安心したのを覚えました

幸か不幸か家と施設は歩いて10分ほどの距離にあったため幼稚園に向かう道の途中、家の前を通るのですが、それがとても苦しかったです。家が見えているのに帰れない、あそこが本当の家なのに戻ってはいけないという状況が当時4歳の私には全く分からず毎日泣いてばかりでした

しばらくして幼稚園に行くのも嫌になり、行きたくないと訴えると暗い部屋に閉じ込められ鍵をかけられてしまいました。一日中泣きました。しかし状況は何も変わらず、そこから感情で訴えてもどうにもならない事を学びました。

悲しい話ばかりでしたが

私はそれから受け入れました、というか受け入れるしかなかったのです。

それからはお姉ちゃんやお兄ちゃん達に優しくしてもらいました、特にオタマジャクシを捕まえられなくていじけていた私に透明のビニール袋にオタマジャクシを沢山捕まえて「取れたからあげるよ」と言ってくれたお兄ちゃんがいて私のヒーローでした!恋心ではないです笑

みんな何かあって施設に来ているので人の気持ちが分かる人が多かったです、当時は何も分かりませんでした。

しばらくして兄妹の中で私だけ家に帰れる事になりました、喜びもつかの間母はそこから精神的な病を患ってしまいました。

おばあちゃんの所へ行ったり家に戻ったりの日々、しかし、どちらの楽しさも知っていました。おばあちゃんのところでは干し柿が食べれて、おばあちゃんとお茶を飲みながら相撲を応援します歌も作りました、近くには大きな公園があって、1人で遊んでる子を見かけると「一緒に遊ぼう」と話しかけていました。実家はいつもの家なのでとても落ち着きました。

小学校に上がり三男が帰って来ました、とても優しい兄で良くスーパーファミコンのマリオカートや外で野球を教えて貰ってました。学校では、恥ずかしがり屋な私は自己紹介も出来ず、授業中にトイレに行きたいと言う事も出来ずお漏らしをする様な子でした。友達もいて学校も好きなのに手をあげて全員に注目されるのが苦手でした、それは今も相変わらず苦手です。

小学4年生の時、家に帰るとピンポンしても返事がなく、兄と夜まで外に座って居たら近所の人が心配して警察を呼んでくれました、家に入れない事を伝えると察した警官がベランダのガラスを割り中に入りました、母は未遂を犯していて救急車で運ばれていきました。私たちは幼かったので救急車にも乗せてもらえず、そのまま一時保護センターに連れて行かれました。

母は寝る時私に「お母さん明日〇〇さんの家の屋上か飛び降りるから」と言い、私は嫌だ死なないでと泣くしかありませんでした。なんで死にたいのかも分からず、授業参観に来た母を見て太ってると馬鹿にした男子がいたら私が喧嘩でやっつけました。兄と強くなる特訓をしていたので同級生の男子には負けなかったです。朝学校の前に走ったり、夜の墓地を徘徊したり、プロレス技をかけ合ったり、野球のゴロを練習させられていました、団地出身だったので団地内の公園に行けば年下も年上もみんないました。私はいつも年上の人と仲良くしていて鬼ごっこで鬼になると、女で小さい私は誰も捕まえられなくてよく泣いたりキレたりしてました。そうするとさらにからかわれ「泣き虫毛虫たたんで捨てろ」と歌われていました、悔しくて仕方なかった私は隠れん坊して鬼になった時そのまま家に帰りアイスを食べながらテレビを見たりしていました。相当な負けず嫌いですね。

私はどんな事があっても絶対に負けません。負けたフリはしますが次はどうしたら勝てるのか上手く行くのか考えます。

話が逸れましたが、いつか私が絶対に母を救うと決め込んでいました。

一時保護センターではまずその場で全部の服を脱ぎ下着も脱ぎ、センターの服に着替えさせられました、カウンセラーさんに絵を見せられ何に見えるか答え、箱庭に好きに建物や人や動物を起きました、いわゆる心理テストですね。

そこから中に通され兄とはまた別になりました。センターには凶暴な子が多く3歳ぐらいの子が椅子を振り回したり、小学6年生が脱走を試みたりしていました。私はコンセントの穴で隣の部屋の子と会話が出来る事を知り消灯後は良く話していました。そこにいた先生は世間では団子さん兄弟が流行っていると教えてくれてみんなでどんなキャラクターか想像して遊んでいました。そこでの一番の楽しみは自由時間の時のカセットテープを聞く事でした、コナンのテーマソングの「氷の上に立つように」です。目を閉じて聞くのです…

氷の上にたつように危なげなこともしたい

思い描いてた夢も形にしてみたい Forever My Destiny

氷の上にたつように/小松未歩

1、2ヶ月してこれから住む施設が決まりました。そこは偶然にも長男と次男が居る以前生活した養護施設でした。東京の数ある施設の中でタイミングよくまた行けるなんて思っていなくてびっくりして心臓飛び出そうな気持ちでした、凄い嬉しかったです!

来た時の服に着替え、迎えに来た車に乗りまりた、外の世界に出たのが久しぶり過ぎて巡り巡り景色が変わりゆく様に感動して泣くのを我慢しました。施設に着き担当の先生に「それじゃあなたのスリッパを買いに行こう」と言われ

私専用のスリッパ!?とびっくりし過ぎて唖然として喜びました。

私は末っ子でいつもお下がりで、家もお金が無かったので、学校行事などのどうしても必要なもの以外に何か買って貰った事がなく、特にこれと言った欲しいものも無かったので私だけのスリッパというのが衝撃的でした

実家と施設が近かったのでまた同じ学校に通う事が出来ました。みんな心配していたよと優しく迎えてくれました。今思うといじめにならなくて本当に良かったと思います。

そこから私は物事を前より深く深く考える様になりました、なぜ生きているのか、なぜ死んでいくのか。小学4年生の理科の時間に私は閃きました!

母のその母のその母のと辿れば皆繋がっているのではないか、もしかしたらおじいちゃんのおじいちゃんは隣の席のひーおじいちゃんだったりして?皆従兄弟なのかも?再従兄弟なのかも?どこかで繋がっているんじゃないのか?とゆうか繋がっていない人はいるのか?と思い、そこからは皆家族みたいなものだなと行き着き社交的になっていきました。

色んな事に挑戦的になり学校の演奏会ではドラムをやってみたり、移動教室の舞台ではステージでSPPEDのダンスと歌を女の子4人で発表したり、いじめをする人を全員の前で問いただしていじめを辞めて貰ったりしていました。とても濃密な小学時代でした。

中学生となるのですが、施設で通う学校が決まっていて同じ小学校の子が4人だけになってしまいました。女の子は私1人と分かりとてもショックでした、同じ部屋の中学生のお姉さんにどうしたらいいか相談すると「じゃあインパクトで勝負するしかないから前髪ぱっつん」と言われ良くわからないまま切って貰ったら眉毛の上の高さでV字の前髪になりました、衝撃で泣いて怒りましたが周りが似合ってると言ってくれたのと、そのうち慣れたので諦めました。そのうちなんとも思わなくなったので今ではいい思い出です。そしてその前髪はやはりインパクトがあった様で初日から席の前後の子と仲良くなれました。クラスで一番うるさかった子がいて、その子が一番の親友になりました。部活も一緒のバスケ部で施設で先生が友達も連れてきて良いと言ってくれたので施設で夜は勉強も一緒で、朝の練習、学校、午後の練習、施設で勉強と1日中ずっと一緒でした。

バスケは一学年上のプレイヤーが居なくて3年生の先輩と私達1年生だったのですぐに試合に出場する事になりました。何も分からず先輩の足を踏んでしまったり相手側にボールをパスしてしまったり、審判にパスしてしまったり、他にも練習試合で現地集合で1人東京から離れ違う県に行ってしまったり、ユニホームを忘れる、バスケットシューズを忘れる、色々ありました。先生には毎日怒られていました、中学2年生になり反抗期になると部活も施設も何もかもが嫌になり先生に怒られても、うんともすんとも、良いも悪いも何も感情も示さない反抗を始めました。

顎を掴まれてこっちを見ろとやられてもただ目を見るだけで何も反応を見せなくなり、そのうち全員の大人が怒りもしなくなり罰として朝大浴場の掃除に食堂で全員の先生に挨拶周り、それでも無視する先生もいました。当然家にも帰れなくて、部活も何の為にやっているのか分からず辞めてしまいました。カースト上位の子達と仲良くする様になり、しかしケータイを持ってない私は集合場所に行っても既に皆移動していたり、施設で自転車に乗ってはいけない決まりがあり皆自転車で遊ぶので私だけ走ったり、それでも門限も早くて中々遊べず、学校では昨日のテレビの話などで施設では年長者がチャンネル権を持っていたので皆んなが見てる話に入れず、恋の話題もどうでも良くて孤独になりました、施設では同年代の子が体を売っていたり、喧嘩に明け暮れていたり、男を連れ込んだり、何も楽しくない、ただの生活。中学3年生は文化祭で披露する太鼓を習いに行き、さらしを巻いて法被で太鼓を披露して、舞台で騒乱武士を踊ったのが中学3年生の時の楽しかった事です。

卒業式は泣かなくてあっさり中学終わってしまったなと後悔が山積みです。学校の帰り道バスケの練習してるダムダムというボールの音を一人こっそり聞いて本当は戻りたいのに、辞めちゃったからもう戻れないと下を向いて施設に帰る日々でした。いつでも戻れたはずなのに本当に戻れないと思い込んでいたのです。受け入れて貰えないと。スラムダンクのみっちーの様に泣いてでもかっこ悪くても気持ちを伝えれば良かったです。

先生バスケがしたいです…。

あの頃は、誰よりも走って試合は絶対に勝つと思って毎日頑張ったけど背が低くて背番号は後ろで、失敗ばかりで、物を投げたらたまたま上に行ってしまって蛍光灯割ってしまったり、体調不良と伝えても顧問の先生も施設の先生も仮病と言い扱って貰えず、足が痛すぎたので病院に行くと腱鞘しているのでしばらく運動は控える様にと伝えられ、部活の帰り道に同じ人に何度も痴漢されたり、思ってもいない事が重なり頑張る意味を見失いました。カースト上位には親に捨てられたんでしょと言われ、誰がそんな事言ったんだろうと心で思い、捨てられてないけど、どうして?と聞くとなんか誰かが言ってたと言われ、そうなんだで流しましたが、凄い悲しかったです。当たり前かの様ないじめの蔓延、部活を頑張っても体の大きさや、チームプレイの難しさ、一番近い大人達に信じて貰えない孤独、知らない人に何度も痴漢され、家がすぐ近くにあるのに帰れない状況。

この世界は一体何なんだと失望しました。私の本当に欲しい物はどんなに頑張っても手に入らないくて、良い子な私が大好きな大人達も皆大嫌いになってしまい。感情を表に出さず心でずっと泣いていた中学時代でした。

高校に上がりやっと家に帰る事が許可されました。

心が一つ解放されました。

続きはまたの機会に

ここまで読んでくださりありがとうございます。


この記事が参加している募集

自己紹介