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ジェンダーバイアスから抜け出せない自称フェミニストたちへ

こんにちは。片桐まめこと申します。
少しの間フェミニストを名乗る女性たち(中には男性もいましたが、今回は女性にフォーカスを当てます)見てきて思ったことがありました。

なんだかジェンダーバイアスに囚われているな、と。

これを言うと怒るかもしれませんが、実際そう思いました。
今は男らしさとか女らしさとかから解き放たれ「好きなものは好き」が許されつつある社会になっていると思います。少なくとも20代の自分はそう思います。自分の親や祖父母の年代を見るとそうもいかないかもしれませんが、そこは世代格差というか、ジェネレーションギャップということで「はいはい」と聞き流しています。私もいずれああなりますからね。
ゼクシィだって「結婚しなくても幸せになれるこの時代に、私は、あなたと結婚したいのです」とコピーを打ったくらいには結婚=女の幸せ というわけではなくなっていますし、夫婦で合意した上で子供を作らないことを選択しても特になんとも思わない方が増えているのではないでしょうか。そもそも恋愛しない、誰かを好きにならない性欲を抱かないと言われても「ふーん」で終わる。スカートを履かなくても「パンツスタイルが好きなんだね」で終わり。ロングヘアだろうがショートヘアだろうがしたい髪型をすればいい。そういう方が増えていると思いますし、ジェンダーバイアスに囚われないというのは他者に干渉しない・する気がないという成分を含んでいると解しています。

では、自称フェミニストの方々はどうでしょう。
例えば一人フェミニストが「この表現おかしい、嫌、不快」と表明すれば水を得た魚のように同調して悪口を言う。それに異を唱える女性は「名誉男性」「家父長制の奴隷」などと言い「女性」という仲間から外される。
……どうでしょう、少女漫画を読んだ方だと特にこういう図を見たことがあるのではないでしょうか。
そう、ステレオタイプな女のソレです。片桐はこういう図式は小中学校では見たことがあります。自分たちはステレオタイプの女のように扱われるのを嫌うのに、自分たちの手でステレオタイプな女を演じてしまう。
悪口の内容は「こんな表現、現代に相応しくない!」なのに、誰より自分たちが旧時代的な行動をし、「こんな表現、差別を助長する!」と言っている口で誰よりも他者を差別する。
「結婚こそ女の幸せ」という発想がなければ「既婚女性」を殊更恨んだりしないでしょう。
「女は痩せていなければならない」という発想がなければ「痩せているモデル」を見て傷つきはしないでしょう。
「女は胸を寄せて大きく見せなければ価値がない」という発想がなければ「巨乳女性」に呪詛を吐く必要もないでしょう。
「女は男にモテなければ意味がない」という発想がなければ「男媚び=悪」とは思わないでしょう。
「女は男を立てなければならない」という発想がなければ「夫を褒めるなんて」と怒ることはしないでしょう。
全て旧来のジェンダーバイアスに囚われているからこそ呪いを吐くのではありませんか?
「私はこんなに苦しんだのに、今の若い人は楽をしやがって」と言うステレオタイプな”老害"になっていませんか?

自称フェミニストの方はフェミニズムの精神──色々あるでしょうが、概ね「男の言いなりにならなくていい」という精神に救われたのではないのでしょうか。
その通りです。男だから偉いわけでもないし、女だから偉いわけでもないんです。性別のせいで無条件に上下が生まれることはもうないんです。
「女はお茶汲みをしてろ」とか「女はどうせ結婚するから」とか、そういう考えはもう「古い物」として扱われています。未だにそういうことを言う人もいるでしょうが、そういう人は価値観を昭和からアプデできなかったおじさんおばさん達です。そう遠くない未来に天寿を全うすることでしょう。
「私たちが警鐘を鳴らし続けなければ!」と気負う必要はありません。もう若い子たちは「男らしさ女らしさ」から脱却しつつあります。
昭和おじさんおばさんからアプデしたのなら、安心して、自分だけの幸せを追い求めてください。

今は自分の幸せは自分で掴む時代です。その幸せはお金かもしれない、生涯の伴侶を得ることかもしれない、好きな作品に囲まれることかもしれない、仕事で成果を残すことかもしれない。幸せの形が増えた分、人から与えられるのを待ってたってダメなんです。
そうして、自分の幸せは自分で掴むことに一生懸命になっていれば、他者の幸せを壊すことに興味はなくなるでしょう。だって自分の幸せと相手の幸せは同じ土俵のものではないから。

呪いを解くのは、最後は自分自身の勇気であると、私はそう思います。

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