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【短編小説】かげぼうし

逃げよう、と言うので、そうした。佐々木さんは冗談が面白い人で、だからといってこれを冗談と思ったわけではないけど、でも、佐々木さんの冗談のように面白そうだったのだ。
ひとを笑わせる能力って、なんだか、安心感がある。無駄な力が抜けて、なんでもどうにかなるような気がしてくる。そんな感じだった。

逃げよう、とわたしの手を握って、にかっと笑うから、わたしも何だかおかしくなって、くすくす笑いながらうんと答えて、佐々木さんの大きくて厚ぼったくて温かい手を握り返した。
佐々木さんは子供みたいに走り出したので、突然引っ張られてよろけながら、わたしも走り出した。浅いパンプスがぱかぱかして、脱げないようにつま先に力を入れていた。
とうとう片方が脱げてわたしたちはもつれあいながらまた笑いあった。

どこに行く? とどちらかが聞いて、うーんとお互い考えながら歩くのだけど、歩いていると、あのおじさん絶対かつらだよねとか、そういえばあのお店のマダムは猫狂いでとか、そんな話に流れていって、そういえばどこ行く? ってどちらかが思い出してまた考え出す、みたいなことの繰り返しだった。
街並みはあまりにも日常の風景で、逃げているような気もしなくて、でも逃げていると思うと何倍も楽しくなった。

ポシェットの中には財布と携帯と化粧ポーチ、あとはさっきもらったポケットティッシュくらいしか入ってなかった。佐々木さんは手ぶらで、ジーンズのお尻のポケットに財布を刺しているだけだった。そんな身軽さも気に入った。

コンビニでおにぎりやジュースやお菓子をレジかごに次々と放り入れた。会計のときに佐々木さんはトリカラひとつ、と言った。トリカラ? と思ったけどなんのことはない、ショーウインドの中で温められている鶏のから揚げだった。
そして適当なビジネスホテルにチェックインした。散々歩き回ってかいた汗をシャワーで流して、セミダブルのベッドの上でくだらないテレビ番組を見ながら食べた。佐々木さんはトリカラをほんとうにおいしそうにほおばった。トリカラの油でてらてらとした唇を、嫌がるのをわかって押し付けようとしてくる。わたしは笑いながら身をよじったり腕を突っ張ったりして逃れた。そうやっているうちにどんどんおかしくなってきて、わたしはふてたふりをする佐々木さんに猫のように覆いかぶさって唇を舐めた。トリカラの香ばしい香りがして、わたしたちは抱き合った。

佐々木さんは大人の男の人なのにわきの毛が一本も生えてなくて、なのに髪の毛はしっかりあった。だから何となく男の人というよりは男の子みたいだった。
わたしもわたしで、のっぽで棒みたいな体つきで、髪をショートカットにするとたいがい男の子みたいだと言われた。男の子同士が抱き合っているみたい、というと、佐々木さんは変な顔をした。ヘルマンヘッセの車輪の下のイメージだったのだけど、そう言っても佐々木さんにはちょっと伝わらなかったみたいだ。
冗談ばかり言い合っているから、裸んぼうで抱き合うのも、なんだか笑えて、いつまでたってもくすぐったかった。

ふれたりしゃべったりしているうちに眠たくなって、いつの間にか眠りこけてしまって、気が付いたらもう夕飯時になっていた。

おうちに帰らなきゃ。

わたしははねるように起きた。一瞬どこにいるのかわからなくて、佐々木さんの横顔を見てほっとした。

逃避行はもう、終わりなのだった。

わたしにも、佐々木さんにも、帰るおうちがあった。ずっと一緒にいたかったけど、もう、帰らなくてはならないのだ。

けれど佐々木さんはわたしの手を強く握った。大きくて、あつい手。驚いて顔を見ると、とび色の目は笑っていなくて、なんだかちょっと怖かった。
ちょっと怖いよ、と笑って言ったけど、佐々木さんは笑わなくて、わたしは少し、くたびれた。体を引き寄せられて、わたしのマッチ棒みたいな体は、収まり悪く佐々木さんのからだに包まれた。
遠くで鳴る「夕焼け小焼け」を聞きながら、わたしたちは溺れていった。空調の効いた部屋の空気はかさかさとしていて、息をすうたびにのどがきしんだ。
わたしが忽然と消えた日常を思う。でも、こうなってしまえばこれは逃避行じゃなくなってしまって、単なる日常の延長なのだった。だから怖い。怖いから、よけいに溺れた。

部屋の中はしだいに暗くなって、青みがかった薄暗がりに佐々木さんの引き締まったからだの影が踊り、目だけが時折ぴかりと光った。綿素材の枕カバーは固くごわごわしていて、うなじが熱い。こすれるたびに見慣れない天井を意識させられた。息遣いとひげのちくちくと、ねっとりと粘りを増す肌と、わたしのかわいた喉からしぼり出る鳴き声と、が、まざりあって、いっそう暗がりを濃くした。
今わたしたちはだれからも気にされていないような気がした。それは、たそがれの公園、大人たちが次々に子どもの迎えに来るのに、自分だけ迎えが来なくて、とうとうひとりぼっちになってしまったような、そんなしんみりとした気持ちに似ていた。長く伸びた影だけが、ともだちで、けれど彼は地面にへばりついたまま、いじけたようにわたしのまねっこばかりした。

佐々木さんに噛まれた肩が痛い。つかまれた手首が痛い。つねられた内腿が痛い。暗くなればなるほど、もっと痛くしてほしくなった。わたしのために加減された痛みは、優しさと配慮に満ちていて、わたしは泣き出してしまいそうだった。

逃れられないのだ、と今さら悟った。佐々木さんと逃げているつもりが、佐々木さんから逃げられなくなってしまった。結局わたしは、いつまでたっても、逃げられない。

影法師が溶けていく。だれも迎えにこないあの日のように、わたしは夜にまぎれていく。

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