見出し画像

此岸にて|酒の短編05

昼酒を飲んでたら不安がやってきた。

午後のうどん屋。そいつは換気で開けたドアからするっと入ってきて、自分の寝床にもぐり込むみたく背中にぴたりと張りついた。

カウンターの端、つまみにとった 天ぷらと中瓶が並ぶ。最後に残した海老天を頬張り、ビールを空けて息を吐く。
何も平日の、明るいうちからとは思うけど、来てしまったものは仕方ない。酒で誤魔化すことにして、冷や酒とつけ汁うどんを頼んだ。

なみなみと注がれる日本酒を眺めながら、不安について思い返す。

一番古い思い出は幼稚園の頃、初めて留守番を任された日のことか。見送る母の姿が遠ざかるにつれ、触れたことの無い感情に戸惑って泣いたのが最初だったような。

そんなことを思い出し、天ぷらに添えたあった薬味を口に運ぶ。大根おろしと生姜の辛味に、油の染みた天つゆが混じって酒の舌になる。コップを置いたままで冷や酒を啜れば、さざ波が立つのが目に入った。

それを今の心みたいだなんて思ったのがいけなかった。こぼれた酒がテーブルに広がるより早く、心が不安で覆われてしまった。
他の客の笑う声が耳につく。酔いではどうにもできなかった。早々にうどんを手繰って店を出た。

まぶしさに目をしかめる。酔いどれた足で駅に向かえば、車道にはみ出しクラクションを鳴らされる始末。舌打ちで応えたけれど信号は赤、うつむきながら「畜生」と呟いたのは頭の中か実際か。

横断歩道を渡り、停まっていたバスに乗り込む。車内には暖かな空気が満ちていて、立ちのぼる埃が日差しに輝いて見えた。乗客はまばら、やがて発車時間になり晴海埠頭行きとアナウンスが告げる。

バスは定刻通り四谷駅を出発し、半蔵門からお堀沿いを進んでいく。窓から吹き込む風を心地良いと感じる程に遣る瀬なくなっていく。眠ろうとするけれど、心が千々に乱れてうまくいかない。気が付けば、勝鬨橋を越える頃。乗客はもう自分だけになっていた。

画像1

終点、晴海埠頭。降りたったターミナルは緊急事態宣言を請け閉鎖されていた。せめて海に向かおうとしたけれど、フェンスに阻まれて近づくことができない。彼方の岸を眺めながら、向こう側には行けないのだと思い知る。

だんだん酔いが醒めていく。不安は消えない。このまま素面になったら、何もかも現実だと認めなければいけないのだろう。

行くあてのないこの場所で、ただ戻るバスを待つしかなかった。もう、酒でも飲まなきゃやってられない。


頂いたサポートで酒を呑み、それを新たな記事にすることで「循環型の社会」を実現します。 そんなほろ酔いで優しい世界、好事家の篤志をお待ちしています。