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日記12月11日。 #日記

モラルの低下を公の場で嘆ける男は尊敬するがなりたくない。というかなれそうもない。

新聞記者、という方々と一瞬お会いしたことはあるが、あまり親しくしゃべったことはない。だが、イメージとしては、すべからく物を書くことに矜持をもって入社された方々だと推察する。

いや、揶揄したいのではない。だが例えば事件記者。いま実際の著書を参照していないのでうろおぼえだが(いつもか汗)、池田晶子さんが確かJR脱線時にJR幹部が飲み会を継続した、というような件に対し、多分哲学的意見を求めて来た新聞記者(若い女性だったような)に対し、ではあなたは飲まないのか、とおっしゃったように記憶する(これはキリストが、罪なき者のみ石を投げよ、といったのと同根だろう)。池田さんのお父様はたしか読売新聞の高ポストにおられた方だが、その姿勢と佇まいを池田さんは尊敬されていたのと同時に、新聞は因果な商売だ、と(お父様の姿ではなく、新聞という形態に)思っておられたのだと思う。

そして新聞コラム。セクハラがあれば、驚き、嘆く。そしてそれを記事にする。そう、もちろんセクハラはいけない。私もそう思う。だが、なにかあって、自分が1000%そうならないという自信がない。そして自分はやらないから、と公の場で嘆くことはできない。それは”モラルマウンティング”だと感じる。”私はそんなことはしない。嘆かわしい”!!ですか?

コラムだと、そういう姿勢が求められるのかもしれない。書いているご本人は本心ではそう思っていないかもしれない。”しかし新聞コラムで求められている。ひどい奴らに義憤を!と”(義憤、ということば、ドクサまみれですね)。

本当にそうだろうか。罪をにくんで人をにくまず、という。会社で人に注意するときは、人格攻撃ではなく、起きた事象の指摘と改善を伝えるべし、という。モラルマウンティングされた人が、本当に心から反省するだろうか。ただ、外野の義憤家が留飲を下げる、だけではないのか。

そのニーズはある。自らの新聞世界は自らのものだ。売って、ナンボだ。

だがだが。読んでもやもやする自分がいけないのか?

高校生のころ、家では朝日新聞を取っていた。みたことの無い字を見つけ、辞書でも見つけられず、新聞社に直接聞いたことがある。聞いて目からうろこがおちた(耳から?(笑))。”朝日新聞社独自の文字(漢字)です”というではないか!!

いやあ、そうか。人は自ら言葉を作り出すことができる。であればもちろん新聞社も。しかし、字まで作ってしまうとは!!発想の転換、というか、態度の違いと共に、その矜持をも感じたものである。

日本では新聞の宅配制度をなんとか維持できている。そのことで、新聞を読む世帯は多く(減ってはいるが)、宅配制度の無い海外とは新聞への信頼の度合いが段違いに高いという。スタンドで買う海外の新聞とは、意見を求めるものでは、基本ないのだろう。スポーツ新聞(私はプロレスファンなので、東スポが大好きです)、ゴシップ誌、と多分近い位置づけなのだろう。

だからか。教え導く高踏的姿勢が、昔から求められてきたのだろう。”家庭を庶民を教え導く”というような。

だがなあ、ちょっと鼻につく、なあ。。若い世代が新聞を読まない、という理由、それにはこのあたりのところが、すこしく関係しているのではないのだろうか。

(読売新聞、朝日新聞、共に読書欄はめちゃくちゃ好きです!いや、嫌みではなく)




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