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日記4月21日(水)。 #日記 過ぎたるは・・・(ゲド戦記(映画版)雑感)。

過ぎたるはなお及ばざるが如し、という。

人間のエゴは”不安”を餌にしている。

エゴはデフォルトで人間心理(魂かどうかは疑問)に備わっている、あるいは備わったものなので、何も考えないでいるときは”次善の策”としての、種としての、生物としての”ニンゲン”にとっての”最もよいと従来の経験の総和から導かれる方法”を示してくる。

ふつう”ニンゲン”はそれに従う。なぜなら考えなくていいからだ。従うことに”淫する”ことも多い。淫する、とは無批判無思考でそのことに身を任せることだ。

だが、エゴは、個人にいいように見せてあくまで“種の保存”に良きことを示す。種の保存とは、指令をしている個体に、ではなく、その子孫が生き延びる、よりよい(と思われる)資質を残すことである。

そんなエゴの在り方を知り、特に批判はしなくてもいいのだが、"敵”のありようを見過たないように、意識しなければならないだろう。

エゴを敵視する必要はない。エゴはあなたの、私の、みんなのDNAなのだから。ゲドはエゴに突き動かされる少年であったが、エゴが真の自分を抑えていることを本能で感じる、という面では鋭い、利発な魂を持っていた。

だから、もうひとりの、”エゴに絡み取られていない”“真の”自分の姿を拒否しつつ、乞い求めたのである。魂として。

それを見つけることこそが、私の理解でいけばル・グインが示そうとした”ゲド戦記”の心であり、魂だ。

象徴的に”真の名前”とされていること、それは”エゴを見つめ、エゴと和解し、エゴにことさら影響されない”自分を知ることなのだと思う。なので他人にその名を知られることは、本当は悪いことではないのだろう。だが相手もまたその名に、その境地に、到達する可能性のある機会を与えること、あるいは相手もまた、同じ境地にあることを相互で確認できること。

”真名”の仕組みと意味はそんなところにあるのではないだろうか。

金曜ロードショーで宮崎吾郎氏の”ゲド戦記”を見た。痛々しい、作品ではある。だが、若書き、というよりは、デビュー作、親の七光りで無理やりその”七光り部分は一回目だけは相当の集客力がある”という鈴木氏の経営判断(そしてそれは全く正しいのだ)により出て来た作品としてみれば、”奮闘した”といえるのではないだろうか。

例えれば、生まれ持っての体格と才能に恵まれ、幸運で自らも努力して大成したレスラーが、宮崎駿だ。揺籃期、黎明期の東映動画(すみません名称は不正確です)に児童文学を大学で学び入社されるが、卓越した画力と、セルアニメという手法により、画力アップ千本ノックというべき、怒涛の量の絵を描きまくる若き日々を幸運にも過ごされる(推測です)。高畑勲という身近ながら強烈な才能をもった先輩を持ち、近藤喜文という人物の姿をどのアングルからも完璧に活写できるアニメーターを後輩にもち、自らも場面構成力や画力の面で、日本一、といえる能力を備えた人。それが宮崎駿である。

賛美しているだろうか。している。だがハイジを、コナンを、旧ルパンを、白蛇伝を、パンダコパンダを、アンを、カリオストロを、見た人であれば同意いただけるのではないだろうか。

画力、のことを少しいいたい。私も版画を描いているが、その画力に絶望することは毎日だ。アニメージュで宮崎駿がナウシカを連載したのを見て、

これは、やばい。

と思ったことを思いだす。絵が上手い、というだけではない。背景も、ポーズも、話の内容も、全てが満点な物語が、現出していたからである。

アニメーターがマンガを描いた、ということで行けば、安彦義和氏の”アリオン”も思いだす。アリオンも、やばかった。だが、読者として偉そうにいうのであれば、絵と背景は満点。お話は80点、であった(自分は棚にあげてます)。

ナウシカは違った。絵(人物と背景)とお話が、両方満点なのだ。それまで見た、どのマンガよりもすごかった。これは自分の趣味が入っている。もちろん他にも満点のマンガはある。だが、このマンガ、どうみても宮崎氏一人で描いている。完璧が、現出していた。

私はアニメのナウシカを見たとき、ものすごく残念であった。これは違う、と思ったのだ。もちろん2時間弱の尺に、ナウシカの世界に接したことがない人を引きずりこまねばならないのだ。ナウシカのマンガを読みこんでいる人はたぶん、全員ががっかりしたであろう。

ナウシカは原作の長さを考えれば、素材としてはいくらでも続編あるいは再映画化が可能であろう。宮崎氏の体力から不可能であろうが。

私はマンガを見まくって育った。金持ちではないので、同じ本を何度も何度も読む。手塚治虫、石森章太郎(もちろん”ノ”はなし)、藤子不二雄。読んで読んで、読みまくる。この3名が、マンガ隆盛期の3人の巨人であることは、皆さん異論はないであろう(ほかにも水木しげる、つげ義春などは忘れられませんが)。

宮崎駿は、毎日マンガを読み、アニメを見続ける上で得た、個人的な審美眼で言って、満点だったのだ。リアルな絵、ドラマを2次元に留める力は、上記の3巨星よりも上だと、感じたのだ。

レスラーで例えていたのであった。スーパースターの息子が、スーパースターになることはある。確かにある。ザ・ロックこと、ドウェイン・ジョンソンなどは父を超えているとも言える。だが、例えば父の身長が195センチであり体重は120キロで、体脂肪は10%、バトルでのメイクドラマが最高にうまく、パフォーマンスも最高で、身体能力が常人離れしており、顔もいい。

宮崎駿とは、アニメ・マンガ界でそのような存在であるのだ。

だが、そのスーパースターの息子が、30歳まで異業種(建築、であれば背景の考察や、人と背景の関わり、という面では経験があるだろうが)例えば整体の仕事をしているとしたら。身長は178センチ位で、体重は75キロ(あるいは70キロ)、実際のレスリングはプロどころかアマでも経験なし。整体の仕事を通じ、すこしは人体のことはわかっている。

スーパースターが年令的に厳しくなり、団体存続のためにいきなりメインイベントでデビューさせられる。

ここまで好きなプロレスに例えて書いてきたが、そして自分で勝手に作った設定であるが、まさにその通り、自分が同じ立場であれば、これはもう、堪らないのがじわじわくる。

例えば類似の業界でトップを極めていれば、同じく1回目は客を呼べるであろう。大相撲横綱、輪島や曙のことをご存じの方もあろう。だが個人的には輪島や曙が、ついにプロレスでの頂点をつかむことはなかった、どちらかというと、咬ませ犬、という厳しい立場であった(ある)ように思う。

本来であれば、30歳であろうと、小品の監督をそれこそ多すぎるくらいのスタッフを付けて、自身の脚本ではなく、プロ、あるいは父親の駿氏のコンテか脚本をつけて、”これはもう宮崎駿か宮崎吾郎か区別がつかない!”と視聴者に嬉しい悲鳴を上げさせるような、リリカルな小品、クラリスやラナが出まくるような作品を3-4作作ったあとに満を持してゲドに取り組んでもらうべきなのである。

駿氏もたぶん、わかっていた。なにしろ愛する息子なのだ。

なんとも残念なことが続く。もともと(何年頃かは不明だが、多分駿氏がシュナの旅を発表される前だと思われるが)駿氏はゲドの世界に魅了されている。ル・グインに映画化を打診して断られている。これはル・グインが悪いとはいえないだろう。指輪・ナルニアと並ぶ3大ファンタジーであるゲドを映画化したい、という希望は、世界中からあったはずだ。そして指輪もナルニアも映画化されている。どのような形で映画化するか、というのは、原作者としても非常に気にするはずだ。

世界が厳しいながらも、生物や自然で包まれた愛の世界である、というのが、ゲドの世界観だ。そこに悪や不安が襲い来て、世界が危機に陥る。これは例えばナウシカの世界観と通底しているものだ。ナウシカやシュナで、宮崎駿はその内部にあった”ゲド的なものを映画化したい”という思いを既に昇華してしまっていたのだ。

幸福な出会いとなるには、時期がある、ということだろう。そしてル・グインと宮崎駿は、残念にもそのタイミングが合わなかったのだ。

私ならどうしただろうか。偉大なる父が、助けてくれないとしたら。ろくなトレーニングもせず、世界のスーパースターといきなり戦えといわれたら。

3人タッグだろう。監督の名前に”宮崎駿の息子”が営業的に欲しいのであれば、演出は高畑勲、作画監督は近藤喜文か百瀬義行。もちろん背景や音楽は重要だが、アニメではお話と絵が生命だろうと思っている。

本当は父親に自ら頼み込んで、少なくとも”場面設定”だけでも欲しいところだ。それだけでも、見どころが出来る。

3人タッグで、世界のスーパースターと対峙した”トレーニングなしの日本のスーパースターの息子”は、ヘルプの2人によっていいところはすこしだけキラリと光るものを見せつつ、最期は轟沈する。そして捲土重来を期す。

プロレスならそんな絵だろう。アニメでも、できたはずなのに。

宮崎駿は、吾郎氏が描いたアレンとテルー(だったか?)のドラゴン化したあとのイメージボードを見て、黙ってGOをゆるしたという。幻想画についてはわたしもうるさいほうだが、あの絵はよく描けている。特にドラゴンが秀逸だ。通常のドラゴンより、より装甲度・金属感が高い感じ。これは建築家である吾郎氏の、せめてもの意地だろうか。

あのドラゴンを、製作スタッフがもうすこしうまく膨らませられなかったか。生物としてもっと魅力的にできるはずだ。それだけでも、すごく売りにできたのではないだろうか。

いろいろあるのだが、ジブリで映画化されたことで、こうして時を経てゴールデンタイムで再度視聴できる機会が得られる。ル・グインも既に亡いが、ゲドについて思いを馳せる機会を頂ける。

なにより苦悩するアレン、それはまるで戸惑い彷徨う吾郎氏そのもののようで、寄り添い、伴走したくなる。

(言い訳をされない吾郎氏は、すばらしい、と思っています)



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