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10月25日 いしやきいもの販売促進拡声器の声を聞きながら。迫害があることとないことの差を考える。

やきいも販売の拡声器を聞いた。

良心的なのは、「1個400円」と明確に言っているところだ。昔一度買ったことがあるが、2000円、といわれ一瞬硬直したものだ。

まあ、なんでも経験だが、それ以来勿論一度も買ったことはない。

拡声器によるセールスには警戒心が働く。大きな理由はやはり「さおだけ」であろう。なんだかよくわからないが、いろいろ言ってきていろいろ買わされるイメージだ。

廃品回収も眉唾だと思っている。廃品といいながら、転売価格が高いものを無料あるいは有料で引き取るものだと思っている。最近多く聞く「押し買い」も怖い。「ボロボロのロレックス引き取ります」なんて、ベルトだけで数万から数十万するものをよくわかっていない老人層をだまして購入する半ば詐欺行為だと思っていて、スーパーなどで見るたびにいらっとする。

まあ、それに比べると、「ここで10分待っています」「1個400円です」というのはだいぶ良心的ではある。いきつけのスーパーのレジ近くでは、1個100円で売っているのだが。


真言密教について。

勿論全く知識がないが、もう何か月も読んでいる井筒俊彦「意味の深みへ」がイスラムの項から密教の項に変わったのだ(読み進んだ、ともいう)。

「存在はコトバである」。あらゆる存在者、あらゆるもの(原典に”もの”の部分に傍点あり)がコトバである、つまり存在は存在性そのものにおいて根源的にコトバ的である、ということをこの命題は意味する。

意味の深みへ 井筒俊彦 岩波文庫 P.209


コトバ、というものがただ物ではないのは、聖書の言、「はじめに言葉あり」という部分を見ても感じるところだ。

仏教、あるいは密教、というものの”深み”は、いわゆる西洋哲学とは違った意味でめちゃくちゃ“深い”という感触がある。というより、その時代時代で突出した知性の持ち主は、その時代を代表する智や知のアーカイブに自らの智を置くしか、手が無かったのだと思う。

だが、それが「宗教」の体を示していると、例えばよく例を出す「マイスター・エックハルト」のように、その時のキリスト教の教義に収まりきれず、「異端」のレッテルを貼られる、あるいは貼られかかる(エックハルトは異端審議に向かう途中で客死=本当に客死だったのか??)という苦難も被り勝ちだろう。

そういう面においては、学問と宗教が一応は分離している現代は悪くはないとは思う。

だが一方で、そうした苦難を受けることへの反発や言い逃れる工夫を通して、つい思わず深みへアクセスしてしまう「結果的にはよき余剰効果」があった場合もあったかもしれないようにも思っている。

(なにもないと考えるパッションが湧かない、というデメリットもあるかもですね)

お志本当に嬉しく思います。インプットに努めよきアウトプットが出来るように努力致します。