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日記2月24日。 #日記

今日の体重は朝食後で66.1kg。体脂肪率7.1%であったが、測る前に23回のディップを行ったのが効いたのかもしれない?一日違いで同じような体重で体脂肪14%とかになるのだ。一体どちらが正しいのか??

底冷えはなくなったが、風があると肌寒さを感じる。うちにはクサガメ(中国産なるもDNAは日本産と同じらしい)がいるが、昨日は水面から鼻を出していた。亀は気温が17度にならないと消化が出来ない、ということを聞いたことがあり、とりあえず餌を入れてはみたがまだ食べないだろう。亀は甲羅があるので痩せていてもわからない。空腹ではないか、心配している。

この日記、できれば数日間予備をと思っているのだが、なかなかままならない。今日の日記を今日書いている。休日があると、時間はたっぷりあるようだが、結局だらだらと過ごしているとあっという間に夜になる。まるで時間が溶けてゆくようだ。

そんな時に実感する言葉が"忙中閑あり”だ。忙中に見つけた閑こそが、集中してなにごとかをなせる時間になりうる。

意思の問題だと思う。だが自らの意志のSPECは急には大きくグレードアップするとは思えないので、この忙中にしか閑を見つけられないアタマとカラダでうまくやってゆくしかないのだろう。

子供の頃から、ぎりぎりまで取り掛かれないタイプであった。本当にギリギリばかりで、試験の一夜漬けなどはできるわけがなく、”夜明け5時間位漬け”であった。そこまで自分を追い込んで、”火事場馬鹿”力を召喚しようとどうも深層心理で心から思っているようなのだ。

そしてその集中力の結果が、事前準備したものよりも良い、と思い込んでいるようなのも、困ったものである。

なぜそうなるのか。やはりやっていることが楽しくないからであろう。仕事や勉強はあまり楽しいと思うことがない。もちろん良い結果が出れば、嬉しくは思う。だがその為に熱心にやろう、とはどうも思えないようだ。

だいたい間に合うのもいけないのだろう。一応、なんとか過ごしてきた。待ち合わせに遅れる、ということはほぼない。海外出張によく行っていたころは、出発当日の朝からいつもパッキングしていた。むしろぎりぎり間に合わせるのがスリルがあって楽しい、とさえ思っていた。

だが、好きなことを行うときには、そのスタイルでは”ひらめき”がやって来ないようである。私が好きなことと言えば、まあお絵かき、ということになるのだろう。お絵かき、という行為は、自分の中では24時間がインプット時間だ。小さい時から、ずっと、インプット、という感じがどこかにある。マンガが好きだが、どこかで資料、という思いがある。本も好きだが、どこかで資料、と思っている。だが、義務ではない、遊びの資料なので、仮に資料にならなくてもよい、という感覚も一方であり、そこが気楽で楽しいのだ。

本で資料を漁っていたころと比べると、WEBで資料を探すことは本当に楽になった。だが私はいまだすこし紙資料に拘っている。置いてある場所さえわかれば、紙の方が再覧性が高い、という感覚がある。

いまはピンタレストやインスタグラムも、どちらかと言うと資料として見ている。ここでいう資料とは、触媒や刺激となる要素、というものも含む。見ることでインスピレーションを得ることがあるのだ。

余りに深く参照すると、影響を受けすぎる。もちろん受けたければそれでいいが、真似の領域に(少しはいいが)自身の基準で入りすぎると、アラームがなるようだ。過去の作品を足掛かりにすることは必要だ。だが自身の香りを0.1mgだけでもまぶしたいではないか。

好きな画家も数多あるが、目指している方向がすごく近い、と感じる作家の作品には、近づきすぎないように本能的にしているようだ。画風というよりは描きたい世界、だろうか。これも例えば画集を見すぎると影響を受けすぎるのが怖いのだ。

これは極私的なお絵かきに関する感触だが、例えば学者などはどうなのだろうか。先行の研究の有無は当然確認が必要であろうが、確認するうちに魅惑的な研究に出会ってしまったら。やっているうちに彼我が溶け去って、他人の研究が自分のものと区別できなくなってしまったら。

研究結果の剽窃や過度な引用、類似がたまに世間の話題となるが、なんとなくそうした陥穽がそのあたりにあるような気がしている。

(人類にとって初めてのことを発見する、ということは、魅力的ですからね。。)






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