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1.7 この世は方便、考え方か。


この世とは流動的であり、何一つ定点たるものはない、

ということが唯一の定点であろうか。


なにもない、ということがあるいは「神」であろうか。


否定こそが真実に到達する。否定にしか、真実は宿らない。


真実を固定されたものとしていた「神」は失われ、固定できない、とする「偽の神」が実は「真の神」であることをあらわにする。


明治の宗教哲学者・清澤満之は、「宗教とは主観的事実だ」とのべている。神仏は限界状況におかれた私の主観において存在する。科学的証明を必要とする客観的存在なのではない。

親鸞 (ちくま新書阿満 利麿

孫引きだが、上記はつまり神を外部から輸入しよう、悟ろうとする気持ちの誤りを指摘しているように思う。

一人一人に真実があり、神があり、真の「私」がある。


自分さがし? それもいい。

私などはない? それもいい。

時間もない?過去も未来もない?? そうだねえ。


なにもない不安定さの上にたって、生きてゆくしか、ないのだろう。

(宗教者、と呼ばれる人たちが肉薄しようとする姿、その姿に惹かれますね)









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