「言葉」からこぼれ落ちた、たくさんのものたちを想像する。
言葉を生業にしているからこそ、言葉の力を人一倍信じている。
と同時に、「言葉の限界」も人一倍意識しているつもりだ。
言葉は人によって受け取り方が違う。だから、言葉ですれ違いが起きる。これは言わずもがなだと思う。
でもその前に、そもそも人が何かを言葉にした瞬間から、言葉とその何かのズレは起こっている。
人は、思っていることや感じたことの一体何%を、言葉にできるのだろう?
という文章を書いているそばから、今自分の考えていることがどのくらい言葉に置き換えられているのかを客観的に考える。いや、客観的に考えても主観的に考えても、分からない問いである。
ある友人は、日常会話の中で大切なところで、言いたいことの反対の言葉が出てしまう。 「りんご」って言いたいのに「いちご」って言ってたり、「上の階」って言いたいのに「下の階」って言ってしまっているのだ。しかも本人は気づいていないらしい。
はじめは、言い間違いかなと思って、毎回「りんごじゃなくて、いちごのこと?」と訂正していたのだが、必ずと言っていいほど正反対の言葉を言うので、調べてみると、失語症の一種なようだった。
なるほど、そういうこともあるのか、なんて思った私だったが、いや待てよ、自分だって思っていることと発した言葉が合致しているかなんて、厳密には確かめようがないじゃないか、ということに気付かされた。
うまく言い表せないなと、自覚するときもある。ただ、そうじゃないときも、思っていることと言葉が必ずしも合致しているとは限らない。
思っていること感じていることは、あくまで抽象で形はない。それを伝えよう残そうとしたときに、瞬間的に無理やり言葉という手持ちカードから選んで並べているだけなのだ。
ごく当たり前のことなのに、ついそれを忘れてしまう。 この瞬間的な互換作業で、手持ちカードに当てはめられなかった思考や感情の片鱗は、なかったことにされてしまう。
思考や感情という抽象的なものでなく、具体的なものや事象を言葉にするときも同じだ。
りんごが机の上に置いてある。
という状況は、それぞれをカテゴリ分けすると「りんご」と「机」というカードに当てはめられるだけであって、そのりんごそのものを本当に説明しようと思ったら、「どこどこ県の〇〇農園のどの木からいつ何時何分に収穫された〜〜という品種で・・・」などとキリがない。机も同じだ。ひとくくりにするしかないのだ。
「近頃の“若者”は」「新しい”働き方”へ」「"日本人"らしく」
その言葉の外側で、たくさんのものたちがこぼれ落ちている。
これはどうしようもない。
精度を上げようということではない。
自分は、本当のことの半分も言葉にすることはできない。
そして相手も、本当のことの半分も言葉にできていない。
このことをいつも忘れずにいれば、本当のことから言葉のカードに当てはめる過程で、こぼれ落ちたたくさんのことを想像することができる。
私は、記者として修行を積んだわけでもなく精度の高い文章を書けるわけでもないけれど、人の話を聞く時、文章を書く時、いつもこのことを意識しようと思ってのぞんでいる。
インタビューや取材で、言葉にされたことと、そのまわりの言葉にされなかったたくさんのことを想像する。
こう言ってるけど、本当はこういう事が言いたかったのかな、この言葉はこういう意味も含んでいるのかな、表情が少し固いのはなんだか言いたくないことがあったのかな。
それは、香りのようだなと思う。香りの元は目に見えているけれど、香り自体は見えない。けれど感覚を研ぎ澄ませば、それは確かに存在する。
そして、それを自分がコピーライティングや原稿として書くときにも、書かれる言葉と、そこからこぼれ落ちていくたくさんのことに思いを馳せる。
こう言ってしまったらこれはこぼれてしまうな、そしたらこの言葉のほうがまだ掬えているかな、この言葉なら感じ取ってもらえるかな。そういう確認の繰り返しだ。
そうして、ちゃんと本当のことに近い香りが漂う言葉を作りたいと思う。
実際には、言葉には味も香りもないけれど、言葉は本来「体験」だと思う。
音があり、リズムがあり、テンポがある。
声があり、トーンがあり、表情がある。
色があり、フォントがあり、余白がある。
目に入り、ページをめくり、画面をスクロールする。
「体験」の中で、言葉は「言葉の限界」を越える。
言葉にならなかったたくさんのものたちを、私たちは自然と五感で受け取っている。もっと敏感に受け取れる。目を見て、声色を聴いて、行間を見る。
言葉にならないたくさんのものたちを、私は五感で伝えたいと思う。改行、フォント、語呂のよさ、漢字かひらがなかにこだわる。サイトや広告のコピーなら、どんなデザインにはめるかも考えて言葉を調整する。
聞くときも話すときも、書くときも読むときも。
簡単に言葉を誰かに送り、受け取ることができるようになった時代だからこそ、忘れちゃいけないなと思うのでした。
(ああ、この文章も、そしてこれからの文章も、言葉にならなかったたくさんのものたちで溢れています)
つづく。
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