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堪忍袋の緒じゃないものが切れた気がする






親しき中にも礼儀あり


という言葉があるように、普段どんなに仲が良い友達でも礼儀のかける言動が続くと一定のレベルを超えてしまった瞬間に、どうでもよくなってしまったり、関わりたくなってしまったりする。


私は、小学生の時に思春期手前の生意気なガキがしたがる、通称”ハブ”の対象になった時でさえ、ハブられたことに対して悲しくなったり怒ったりするよりも、

•主犯の子やグルになってる子のことを嫌いになってしまう
・仲良しだった人(仲良しってそもそもなんだよ)を嫌いな人になってしまう

と、謎の理由で泣きじゃくり親を困らせる、一風変わったお人好し平和第一主義人間だ(った)。


その性格というか特質はそんなに簡単に変わるものでもないらしく、
良く言えば、”分け隔てなく接する八方美人”
悪く言えば、”どこにでもいい顔をする八方美人”に成長した。


そんな八方美人の私は、長い年月を過ごしてきたり、急激に仲良くなった友達に対して、


”あ、あっ。”(胸が苦しく痛い)
もうこの人とは今までみたいに関われないや、、、

と急に感じる場面に直面するようになった。

その時の感情をどのように表せばいいのか、と考えた時に
最も適当だと思った表現が

”堪忍袋の緒じゃないものが切れた気がする”

だ。

堪忍袋の緒ではなく、堪忍袋の緒じゃないもの。だ。








なぜ私は堪忍袋の緒ではなく”じゃない”ものであると感じるのか。

それは”我慢してたつもりがなかった”からだ。

切れたものは堪忍袋の緒である。
(無意識でも我慢していたことがあって、それが原因だからね)

だけど、切れるまでは切れるかもしれないギリギリであることすら気がつけなくて、切れてから『あ、切れた』となるため、

『あ、なんか切れた。なんだこれ、堪忍袋の緒、、、?ん?堪忍袋の緒じゃないものが切れた気がする』

となるのだ。
(ここから、堪忍袋の緒じゃないものを指す言葉を”じゃないもの”と略す)


ただ、つもりがなかっただけだから、思い返してみるとあれやこれやと色々と候補は上がる。


その経験を何度がしてきたのだが、じゃないものが切れる瞬間は本当に偶発的に発生する。つまり、事の大きさに関わらない場合がしばしばあるのだ。
だから、

『え?なんで?』『たったそれだけで?』


も思われてしまう小さな出来事がきっかけであることあるから、二次被害という名の共通の友達への悪評も立ちかねない。
(実際有る事無い事、補正をかけて伝えられることがほとんどだ(*^^*)正直慣れた。)


だからそんな時は
((あ、あ、たぶん話したとて伝わらないよ、、、それにそもそももう話す気力すらないよ))
と心の中で自分に話している。




冒頭で述べたように私はかなりのお人好し平和第一主義人間だから、どうしても、こんな結果を招いてしまったのは自分のせいもあるし申し訳ないと無意識に解釈してしまって、体調に支障をきたす。

実際に去年の秋にじゃないものが切れたのだが、直後に全身が痛くなって頭痛とめまいが止まらない(自律神経失調症)日が数日続き、そのまま半年以上ものあいだ心療内科に通った。また、夜眠れなくなったり、手の震えが止まらなくなったりと顕著にガタが現れる。



実はつい数日前、じゃないものが連続して切れた。

何度経験してもつらいし疲れるしキツイしネガティブな言葉が止まらないくらい最悪だ。

だけど、これを乗り越えないといけない理由も沢山ある。いつまでも過去にとらわれるのは嫌だ。
だから自分を奮い立たせるためにもこれを書いた。

誰にでもある苦しい瞬間は、人に見えないことの方が圧倒的に多い。
その瞬間をで孤独に耐えながら勝つのか、周りを頼るのか、方法は十人十色だ。
だけど自分が悪いと思わないように、自分の機嫌をとれるのは自分だけ、自分を肯定できるのも自分だけだと、その瞬間だけでもエゴイストになる必要がある。


がんばれ、私。

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