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世界の開闢、開口部、管である「わたし」と対話について

藤田一照さんの座禅会では、座った後に学びの時間がある。その中で聞いた一照さんの話から、湧き上がって来たことがあるので、出してみる。

「わたし」という存在は、決して掴むことのできない存在。一般的には「わたし」は世界の中にいて、世界の一部だと思われがちだが、実は「わたし」こそ世界の開闢であるという話。


「わたし」が世界を感覚することによって、世界は存在している。一照さんが捉えている世界と、私も含め今日座禅会に来ていた20名が感じている世界は違う。「わたし」がいなくなれば、その世界は消える。まさに、「わたし」が世界の開闢である。

で、私が考えていること。

世界の開闢と同じようなことで、私は、1つ1つの存在が「地球の開口部」であると思っている。この世界には集合的無意識みたいなものがあるが、それは直接的には感じられない。しかし、その集合的無意識は、宇宙の共通基盤のようなものでもあり、1人1人の人間や動植物、あらゆる環境がその開口部となって、この地球上に、その「からだ」を通して表現している。

ことばの焚き火」では、そのことを、管感ということばで書いた。

わたしたち1人1人が、無意識の海につながる管であり、その固有の管を通してでしか表現できないものをこの地球上にあらわしている。その管同士は、1人1人が個別の世界の開闢であるように、直接的に混じり合うことはないが、その管を通って出て来たものの響きあいで、互いに影響し合い、変化する。

私は、対話をすることを通して、1人1人の世界の圧倒的違いに驚くと同時に、ことばでは表しきれない身体的に感覚できる共通基盤の存在と、互いの言語・非言語・未言語コミュニケーションから、各々の世界に影響を与え合うことを、体感的に知った。

「わたし」は世界の開闢であり、開口部であり、管であり、私は「わたし」を通してあらわす世界を引き受ける。

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