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なまえの呪。

自分のなまえについて、ハテ、と考える。
小学校などで、一度や二度、そういう授業もあるのではなかろうか。

私は、なまえが特殊だ。
それなりに時代が進んできたので、あえて、当時は、という枕詞が付く。

どれぐらいかというと、仮に全然違うなまえで書くとするならば、
田中 メリッサ ぐらいの雰囲気。
苗字は掃いて捨てる程いるのに、下のなまえが、すごく洋風だ。
小学校の入学式では張り出されたなまえに釣られて隣のクラスが全員見に来た。

父の上司が当時、私のなまえを聞いた時
「わあ、うちのいぬと同じなまえ!」と驚き、1メートルぐらいある巨大ないぬのぬいぐるみを贈ってくれた。未だ、実家にあるはずだ。

当時から、自分のなまえを嫌いでもなく好きでもなく、どこか俯瞰して見ていた。


陰陽師だったか、ネットで読んで腑に落ちた言葉がある。
「名前はこの世で一番短い呪だ」
「あそこに花が咲いているであろう。
あれに人が”藤”と名を付けて、みながそう呼ぶようになる。
すると、それは”藤の花”になるのだ。それが最も身近な”呪 ”だ」

皆々が、それぞれ身近な呪に縛られている。

中学ぐらいからはインターネットが普及し、好きに名乗れたので別に不自由はしなかった。
源氏名を使うようなバイトもしたし、何となく開放された気になっていた。
本名で呼ばれることのない、少し浮ついたような地に足が付かないような浮遊感。だれもわたしのことなど知らないような、それでいて、自分で作った人格で過ごしているような居心地のいい時間だった。

呪を自分で解いた、というほのかな自信。
生まれ変わるためにはいくつかなまえがあってもいいのかもしれない。


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