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評価ってなんだろう5 ナンバーパーソンの悲劇

 タイトルは、ブレイディみかこ氏によるものです。早稲田大学の菊地栄治先生から教えて頂きました。少し引用します。

ある朝、目覚めると自分が巨大な虫になっていた、というのはカフカの小説の主人公だが、私の場合は知らない間に数字になっていた。
 (中略)誰かと会えば、その誰かはわたしの顔を見ているようで、実際にはわたしの顔に張り付いた数字を見ている。

『月刊みすず』 2021年11月号

この数字は、例えば「珠玉の随筆を書いた14万部さん」とか「著書を上梓した32万部さん」などです。そしてみかこ氏は、高校時代の恩師を思い出します。「君たちは偏差値じゃないんだ」という言葉と。

まあ実際、そういう反抗的なことをうそぶいてみたところで、現実問題として日本の子どもたちは教育システムに偏差値として認識されているのだ。
(中略)
 またわたしは自分自身が数字になってしまったことを思いだしてうずくまる。経済で荒れ、教育で荒れ、人は抗い続けないとすぐナンバーに変身する。虫のほうが、命があるだけまだいいじゃないか。

同前

これは、私が以前から考えていたことにピッタリでした。

最初にこうしたことを考えたのは、野球を見ているときでした。
 日本のプロ野球中継でスピードガンが導入されたのは、1979年の4月だそうです。それまでもバッターは、打率だったりホームラン数であったり、「数字」で評価されていました。ピッチャーも勝利数や防御率で評価されていたのに、さらに球速が加えられました。
 このおかげで、素人にもわかりやすくなったということはあるでしょう。しかし、だんだんとこれでよいのだろうかと疑問にも思いました。
 確かに160キロのボールを投げる投手はすごい選手です。しかし、例えば阪神タイガースにいた藤川球児は全盛期には150キロ台でしたが、140キロ台のストレートでもバッタバッタと打者を打ち取ってました。見ているとものすごい剛速球なのに、画面には140キロ台と表示されていることもよくありました。そこに数字では表せないすごさを感じました(今はまたボールの回転数などで説明もされていますが)。
 私がやってきたサッカーは、もともと数字で表されないスポーツだったせいでもあるからでしょうか(これも今は、パス成功率とかデュエル勝利数とか、さらにOBVなどという数値も導入されつつあります)、よけいそう考えたのだと思います。

 そう考えてくると、スポーツ選手を数字で評価すると、プレー本来のよさが見えなくなると感じてきました。ブレイディみかこ氏の言葉を借りると「スポーツ選手を見ているようで、実際には選手に張り付いた数字を見ている」となるのではないでしょうか。これでスポーツ本来の楽しさを味わうことができるでしょうか。

 これは、スポーツだけでなく、今の社会の様々なところに出ています。SNSのフォロワー数や「いいね」の数が、そのアカウントの評価になってます。有名なYoutuberの紹介も内容よりもチャンネル登録者数で紹介されています。
 といいながら私たちも書籍のPRに部数を入れています。実際にそうしたほうが売れるからなんです。内容よりも数字、それがますます強くなっています。

 ブレイディみかこ氏は、それを悲劇だと言います。「文章というものは、人間には書けても、数字には書けないのである。当たり前だ」とも言います。
 だからこそ、少なくとも学校の子どもたちを数字で見ることはないように願いたいです。テストで「何点」の子どもとか、陸上大会で「何位」になった子どもとか、そういう数字を剥がして、子どもそのものを見てほしいと願うのです。

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