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できなくてもよい、間違っても大丈夫

 過去記事で、「『学び』の過程に、間違いや失敗は必要です-オリンピックで思うこと」を書きました。
 その補足です。

 私も、そうなんですが、できなかったり、間違ったりすると恥ずかしいと思ってしまいます。
 昨年、南アフリカの先生方に講義をする機会をいただきましたが、英語で話すときも、「間違ったらどうしよう」と不安だらけで、英語ではまともに話せませんでした(通訳さんがなんとかしてくれました)。
 普段は、少々文法的な間違いがあっても、ちゃんと伝わるよ、と言っているにもかかわらず、そんな体たらくです。

 そんなことからも、このことを改めて考えるようになりました。

 私は、サッカーをずっとやってきて、高校の時にはスポーツ少年団の交流事業で西ドイツへも派遣されました。まあ、スポーツは得意なほうです。
 周りもそう認識していたようで、高校では生徒会で体育部長(運動会や球技大会などの生徒会での担当)などもやらせていました(周りが、お前がやれというので)。運動会の紅組の組長もやりました。
 足も速いほうでした。中学では、町の中学生、約500人の中で5番以内に入っていました。

 ところが、小学校の時は、足も遅く、体育は苦手なほうでした。
 当時の運動会で走っている写真があるのですが、父曰く、「笑いながらで、真剣に走っていなかった」そうです。
 それでも、体育は好きでしたし、楽しい思い出しかありません。苦手でも楽しかったのです。だから笑っていたのでしょう。
 できないことも苦ではありませんした。これは性格かな、とも思います。
 そうしたところから小学校4年生でサッカーを始め、少しずつ上達し、体力もついていきました。それが中学の部活で、一気に伸びたのです。
 足も速くなり、すぐにレギュラーにもなりました(中学は5つの小学校から進のですが、小学校でサッカーをやっていたのは私のところだけだったので、先輩より経験があったこともあります)。

 今にして思えば、できないことが苦でなかったことが大きかったのだと思います。

 大きくなるにつれて、できないこと、間違うことに抵抗をもつようになりました。それは誰でもそうかと思います。幼児は、そんなことは気にしませんが、大きくなるにつれてそう感じるようになっているようにも思います。

 だから、やはり学んでいくために、成長していくためには、「できなくてもよい」「間違ってもよい」が認められる環境が必要になるのではないかと思います。
 大村はまさんは、「人を馬鹿にする、下に見ることが本当にない教室」が大事だと言われます(『教室をいきいきと』)。
 
 なかなか難しいことですが、対話的な学びをするためにも、そういうクラスづくりが必要なのではないでしょうか。
 
 

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