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ネガティブなのが悪い訳じゃないーー不確実な時代を生き抜く能力とは

(※この記事は2020/06/17に公開されたものを再編集しています。)

不確実性の時代に、古い本を読む

 何度も読み返している序文がある。経営学者・國領二郎の『オープン・アーキテクチャ戦略:ネットワーク時代の協働モデル』という本の「はじめに」だ。1999年に出版された本だが、古びた印象を与えない。

 今読んだとしても、思考や関心のあり方、そして、主張の基本的な方向性に、何か重要なものを読み取ることができる。たとえ、持ち出される事例や文献が古く感じられたとしても、議論は古びていない。というより、たかだか20年で古びる程度の議論は再読に値しない。

 この本の序文に、私の心は深く印象づけられている。理由を立ち止まって考えてみると、答えは掲げられている問いにあると気づいた。序文に書き込まれているのは、「これまでの常識が通用せず、急激に変化を遂げる環境の中で、的確なビジネスの構築と運営を行っていくためには」どうすればいいのか、という素朴だが、私たちが数年ごとに実感させられる普遍的な問いだ。

 同時多発テロ事件、新潟中越地震、リーマンショック、東日本大震災、SNSの普及、シャルリーエブド事件、動画投稿サイトの一般化、西日本豪雨、ブレグジット、トランプ現象、そして新型コロナウィルスのパンデミック――ざっと思いつくものを挙げたが、私たちに時代の不確実性と「これまでの常識の通用しなさ」を感じさせた事象は他にもあるだろう。

 上の問いには「ビジネスの構築と運営」と書かれているが、読者たる私たちは、必ずしも「経営」を念頭に置く必要はない。その方が想像しやすいのであれば、仕事、学業、家庭、社会、政治といった任意のテーマを代入していい。不確実性のくびきを完全に免れている領域はないのだから。むしろ、ここで重要なのは、不確実で曖昧で見通しの立たない時代を生きているという感覚そのものである。

抽象と具体を行き来する思考

 國領は、不確実で見通しの立たない環境にあって「二つの視点」を求める。第一に、差し迫ったニーズから一時的に離れ、抽象度の高い概念や理論を理解し、それを学び取ることで、別々に思える複数の現象に働く共通の力学を見て取ること。第二に、世界を見渡せば、絶えず新しい実践がなされ、事例やモデルが提示されているのだが、その個別事例を注意深く観察し、それらに伏在する「流れ」を読み解くこと。端的に言えば、抽象と具体の両面から物事に迫る必要がある、という提案である。

 私なりに論点を付け加えるとすれば、理論や概念などに触れる時間が必要であると同時に、無数の個別事例の観察が求められるというのは確かだが、より重要なのは、その「抽象」と「具体」を、私たちは絶えず行き来しなければならないということだ。

 そして、いつの時代もそれなりに不安定に感じられているのだとすれば、この行き来する思考に終わりはない。目を凝らしては熟考し、理論を具体へとフィードバックするという回路は、私たちが変化に対峙したいと望む限りずっと続く。

 VUCAという危機を煽るだけのフレーズに騙されてはいけない。いつの時代も危機の時代なのであり、その意味では不確実で不透明だ。問題は、私たちが変化や不確実な状態に直面しようとするかどうか、國領のような提案に乗るかどうかなのだ。

うまく迷うこと

 しかし仮に提案に乗るとしても、どんな理論を学び、どんな事例に目を凝らす必要があるのだろうか。つまり、不確実性にどのように直面すればよいのだろうか。(それはこのコラムが果たすべき役割でもあるのだろう)

 とはいえ、あらゆる関心、あらゆる状況、あらゆる文脈を貫いて問題を解決するマスターキーはない。そのことは、この連載では繰り返し指摘している。もしそのような「原理」(マスターキー)があるとすれば、何にでも当てはまりすぎるがゆえに、個別的な事例を何も明らかにしないし、何の処方箋も提示できない。

 「万能薬はない」という主張と並行するように、このコラムではもう一つの提案をしてきた。「わからない」「知らない」という状態とうまく付き合おう、というものだ。私たちは失敗やリスクを恐れるあまり、迷うこと自体を忌避している。

 ヘンリー・デイヴィッド・ソロー曰く、「人は迷ったときに始めて、自分のことを知り始める」。だとすれば、私たちはもっと迷子になっていいし、うまく迷う術を身につけていい。迷って構わないのだとわかってさえいれば、知らない街を歩くことも、初めての森を散策することも、恐れるには及ばない。

ネガティヴ・ケイパビリティ

 だが、「迷おう」とだけ提案し、何の指針も提示しないのも不親切だろう。

 何かを学び、何かに注意を向け、何かを読み解くというとき、共通して働いているのは、私たちが「関心」や「好奇心」と呼ぶものだ。しかし、好奇心にもタイプがある。ゴシップ屋のようにあちこちを嗅ぎまわり、不安から自己啓発本を読み漁っては以前の本のことを忘れたりするような積極的な好奇心もあるだろう。だが、ここで扱いたいのは、むしろ、静けさと待つ姿勢で特徴づけられるような、内向的で思索的な好奇心である。

 こう述べるとき、私の念頭にあるのは、ロマン派詩人ジョン・キーツの用いた「ネガティヴ・ケイパビリティ」という言葉だ。キーツは、シェイクスピアが持つ偉大な資質としてそれを挙げ、「人が、事実や理由を性急に求めることなく、不確実性、神秘、疑いの中にいることができるときに見られるもの」だと言い換える。

 この概念は、のちにリーダーシップ論に取り入れられ、「ただ反射的に応答したくなる恒常的なプレッシャーに負けず、変化に対して身構えずに対峙することができること」として変奏されている。これは、嗅ぎまわりあちこちに顔を出しては手頃な答えで満足するタイプの好奇心とは対照的だ。

不確実性は思考を急かす

 時代が投げかける「不確実性」それ自体、暮らしの見通しの悪さそれ自体が恐ろしいわけではない。深刻なのは人間が見通しの悪さに耐えきれないということだ。その曖昧な状況に目を凝らすことは、人間にとって負担になる。人間のスペック上、わからなさ、知らなさに対峙するよりは、手頃な断言口調に飛びつく方が容易い。不安なときほどそうだ。つまり、不確定性がもたらす不安は、私たちを性急にするのだ。問題はそこにある。

 哲学者のジョン・デューイが指摘するように、大抵の場合、私たちの思考は、結論を急ごうとしてしまう(*)。とにかく駆け出せば迷子でなくなって森から出られるわけではないし、とりあえず目についた店に目的のものが置いているわけもない。性急さと思い込みは、不安を消してくれるだろうが、不安の原因となった問題を見えなくし忘れさせてしまう。

 ネガティヴ・ケイパビリティ、わからなさの中で佇み、性急に結論や理由を求めない態度。しばらくは、このテーマを掘り下げていきたい。


言及した文献は以下の通り。

國領二郎『オープン・アーキテクチャ戦略:ネットワーク時代の協働モデル』ダイヤモンド社

ヘンリー・デイヴィッド・ソロー(1817-1862)

Keats, J., Letter to George and Thomas Keats, December 28, 1817

https://en.wikisource.org/wiki/Letter_to_George_and_Thomas_Keats,_December_28,_1817

 French, R., et al., “‘Negative Capability’: A Contribution to the Understanding of Creative Leadership,” in Psychoanalytic Studies of Organizations, 2009

(*)「思考は結論を急ぐ、現実は一概に言えない」(前編)


2020/06/17

著者紹介

谷川 嘉浩
博士(人間・環境学)。1990年生まれ、京都市在住の哲学者。
京都大学大学院人文学連携研究員、京都市立芸術大学特任講師などを経て、現在、京都市立芸術大学デザイン科講師、近畿大学非常勤講師など。 著作に、『スマホ時代の哲学:失われた孤独をめぐる冒険』(Discover 21)、『鶴見俊輔の言葉と倫理:想像力、大衆文化、プラグマティズム』(人文書院)、『信仰と想像力の哲学:ジョン・デューイとアメリカ哲学の系譜』(勁草書房)、『ネガティヴ・ケイパビリティで生きる』(さくら舎)など多数。

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