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天才と秀才はどう違うのか――ある哲学者の「消極性」

(※この記事は2020/10/02に公開されたものを再編集しています。)

天才と秀才の違い

 恐らく、よく生きることができる人間は記憶力がいい人間のことだ。ここでの「記憶力」は、クイズ王的なものとは関係がないし、百科全書ばりの情報を蓄えていることでもない。それは、自分に都合の悪いことを進んで覚えておくという意味での記憶力だ。手の中にじっと汗がにじむように、首に何かがまとわりついたみたいに、過去が残っていることだと言い換えてもいい。

 心理学者の河合隼雄は、文学研究者である桑原武夫と交わした会話を書き留めている。河合の心に残ったのは、思想家・鶴見俊輔の評価だった。

「ああ、鶴見は天才でっせ」と〔桑原に〕言われる。そこで、先生は天才と秀才をどうして見分けられますかとお尋ねすると、「天才は……自分に不利なことでも平気で喋る」。「秀才は自分が損するようなことは上手に隠す」とのことである。(*)

鶴見は「自分に不利なこと」に関心を示し続け、そこから思想を組み立てた。今回ぐるぐると検討していくのは、この会話が指し示す思想、つまり、「間違いを覚えておく」ことの先にある思想である。

人は記憶を書き換える

 様々な心理実験は、人間の記憶がいかに頼りないものであるかを明らかにしてきた。それどころか、虚偽の記憶を植え付けることもそれほど難しいことではないし、記憶の印象や方向性は相当簡単に誘導することができる。(**)

 だとすると、自分の間違いを覚えておくというのは、相当に困難な作業であることは想像にかたくない。人間にとって、自分の間違いを忘れる方が覚えておくよりもずっと簡単だ。

 今この瞬間の間違いや失敗ですら認められず、ひた隠しにし、間違いが起こった痕跡や記録を抹消するのはよくあることだし、その結果、自分が間違ったという記憶すら書き換えて、何事もなかったかのように忘れてしまうことは珍しくない。そもそも、好んで間違いを覚えておきたい人はそういないだろう。

真理への方向感覚

 けれども鶴見は、間違いを手の中に置いておくこと、それに対峙することを推奨する。

こういう間違いを自分がした。その記憶が自分の中にはっきりある。こういう間違いがあって、こういう間違いがある。いまも間違いがあるだろう。その間違いは、いままでの間違い方からいってどういうものだろうかと推し量る。ゆっくり考えていけば、それがある方向を指している。

鶴見・関川『日本人は何を捨ててきたのか』pp. 82-3

間違いという言葉が、この短い語りの中で何度も繰り返されている。

 間違いが生み出すものは、「方向感覚」と呼ばれる。それも、「真理」を暗示するような方向感覚である。鶴見にとって、真理はこれと指差せるものではない。実際の失敗だけでなく、想像の中での過ちも含むような、様々な間違いの記憶によって間接的に暗示された「これは違う」「これはまずいな……」といった消極的な方向感覚こそが、逆説的なことに、真理へと私たちを連れて行くのである。

 第二次世界大戦という愚かな戦争を経験した鶴見からすると、日本人として加担した戦争や敗戦が「間違い」の典型だった。戦争という間違いの記憶は、それが大きく社会や個人に影を落としたがゆえに、粉飾・修正・弁解したい気にさせるものだった。

 ここで河合隼雄と桑原武夫の肉声をエコーさせておきたい。「天才」は自分に不利なことでも平気で喋るのに対して、「秀才」は自分が損するようなことは上手に隠す。日本社会は、何か目立った人に責任の大半を押し付けるか、あの時代はおかしかったと例外処理するか、あの戦争が間違いではなかったと強弁することによって、「秀才」たろうとしてきたのかもしれない。少なくとも、鶴見は、桑原はそう考えていた。

間違いとともにいる能力

 「これが絶対正しい」「これが私の思想です」などと威風堂々と断言してみせる力が「積極的能力」と名づけられたのに対して、間違いの記憶を内に蓄えた上で、その方向感覚をもとにして状況に適切な応答をなすことができる力は「消極的能力」と呼ばれた。

 鶴見が「消極的能力」の例として挙げるのは、第二次大戦中に翼賛運動に参加し、戦後に公職追放にあった人たちがお金を出し合って、自分たちの愚行を彫り込んだ石碑を立てたという出来事である。

戦争に対して、「こうだ」とはっきり裁定して、「だから平和は守られねばならん」とね、積極的ではないんだ。そうじゃなくて受け身のまま記憶をじっと保ってきた。そういう人たちが建てたんです。

『日本人は何を捨ててきたのか』pp. 88-9

もちろん、鶴見はこれに好意的である。

 何か積極的に投げかけるというより、ただ間違いを書き留め、それを覚えておく。どう間違ったかをできるだけ粉飾せずにおく。都合の悪いことを隠さず、進んで語りさえする。鶴見が語った「真理への方向感覚」は、よい記憶力とともにある。

誰かの非難することで問題を他人事化する

 この話は、個々人が自分の生活において直ちに実践し始めることができる。ただ、これを少しマクロなレベルに話題を拡げ、共同体や社会のレベルに適用することもできる。

 従業員を精神的に抑圧し、罵倒して、退職や休職に追い込んだり、従業員間での苛烈ないじめが常態化していたりするといった企業や組織のニュースを時折目にする。こうした事例を多数蓄えておくことで、群れとしての人間が条件さえ揃えば簡単に人を傷つけるのだと憶えておくことができる。

 個人レベルでも集団レベルでも誰かの間違いが話題に上ったとき、「そういう人間は終わっている」「許せません」といった反応をする人は少なくない。この人は悪い人だと非難することで、「私は関係ない」と他人事たることを確認しているかに思える場合もある。誰かや何かを非難するとき、「自分が加害者にまわるかもしれない」という想像が伴っている人はあまり多くないだろう。

 ダニング=クルーガー効果(=能力や知識において劣っていることほど人は自分を過大評価する)について聞いた人が、「あーそういう人いますよね」と反応し、自分は関係がないという顔をすることが珍しくないのと、それは似ている。私たちは記憶を書き換え、間違えたことがないかのように過ごしている。

消極的であることほど難しいことはない

 正しい方向はこちらだと断言する積極的能力は、その積極的な断言ぶりゆえに間違いやすい。鶴見は、これが正解だと言わずに、「こちらは間違いだった」「これはまずい」といった直観を研ぎ澄ませ、方向感覚に昇華することを推奨した。その方向感覚を鍛えるのは、間違ってきた記憶だけでなく、これから間違いうるという未来の予測である。

 鶴見によると、ネガティヴ・ケイパビリティとは、間違いによって自分の進むべき方向を消極的な形で知るという能力のことだった。それを、明瞭な答えを出さずに間違いとともに佇んでいるという能力だと言い換えることもできる。

 けれども、「間違いとともにいる」ことができる人なんて、そんなに多くないということを私たちは日常の経験から知っている。あるいは、自分の振る舞いから実感しているはずだ。ネガティヴ・ケイパビリティについて考えてきた私たちは、消極的であることほど人間にとって難しいことはない、と結論せざるをえない。その希少性ゆえに、桑原はこういう人物を「天才」と呼んだのである。


鶴見俊輔・関川夏央『日本人は何を捨ててきたのか: 思想家・鶴見俊輔の肉声』ちくま学芸文庫


(*)河合隼雄と桑原武夫の会話については、私の文章を参照のこと。

「作文はなぜ知的独立性の問題になるのか:鶴見俊輔, 生活綴方, 想像力」


(**)「なぜ人は都合よく"記憶"を書き換えるのか」President Online


ダニング=クルーガー効果については以下の記事で扱った。

「無知は人を過激にし、自分への目を曇らせる」(前編)

鶴見俊輔(1922-2015)

河合隼雄(1928-2007)

桑原武夫(1904-1998)


2020/10/02

著者紹介

谷川 嘉浩
博士(人間・環境学)。1990年生まれ、京都市在住の哲学者。
京都大学大学院人文学連携研究員、京都市立芸術大学特任講師などを経て、現在、京都市立芸術大学デザイン科講師、近畿大学非常勤講師など。 著作に、『スマホ時代の哲学:失われた孤独をめぐる冒険』(Discover 21)、『鶴見俊輔の言葉と倫理:想像力、大衆文化、プラグマティズム』(人文書院)、『信仰と想像力の哲学:ジョン・デューイとアメリカ哲学の系譜』(勁草書房)、『ネガティヴ・ケイパビリティで生きる』(さくら舎)など多数。

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