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「ほうれん草を育てながら哲学してみた」第10話〜受動性の大切さ〜


大プランターのほうれん草の元気がない。

たぶんだが、水をやりすぎたせいだと思う。水をやるタイミングは「土の表面が乾いたら」ということだったが、ついつい水をやりすぎてしまった。その後間引きもしたのだが、どんどん元気がなくなっている気がする。ちょっと先走って動き過ぎたようだ。

僕が勝手に師匠と思っている哲学者の内山節先生は、群馬県上野村の家に畑を持っている。そして「農作業というのは受動性が大切だ」というような話をされていた気がする。

百姓が朝に畑を眺める。そうすると、おのずと自分がするべき作業がわかるのだという。あくまで畑やそこで育つ作物、そして天候などを見て、そこからやるべきことを感じ取るのであって、それを抜きにして自分の頭の中だけでやるべきことを決めるようなことはしない。

確かに農作業とは、作物が健やかに育つことをサポートしてあげることだろう。そのためには、作物が求めていることを感じ取ることが何より大切である。僕は今回、ほうれん草の気持ちにはあまり目を向けずに、なんとなく自分の気分で「能動的に」水をやってしまった気がする。すまん、ほうれん草……(←何回目だ!)。

とはいえ、「能動的であること」と「受動的であること」をはっきりと分けることができないのもまた事実である。たとえば僕らは、「このたび結婚することにしました」と言わずに、「このたび結婚することになりました」と言ったりする。あるいは、「この会社に就職することにしました」ではなく、「この会社に就職することになりました」という言い方をしたりする。

それが明確な自分の意志にもとづいていたとしても、「〜した」と言わずに「〜なった」という言い方をすることがよくある。

そこには、なんとなく「自然の流れの中で……」とか「いろいろあった結果……」のようなニュアンスがあって、「決して自分の意志だけで決まったわけではない」という意味合いが含まれている。

それを「〜した」と断言すると、まるで自分の意志によってのみそれが決定したかのような感じになり、なんとなく「腑に落ちない」。

確かにそこに自分の意志があることは確かだろう。でもそれが実現するためには、他者の意志や自然の流れ、タイミングなど、偶然的なことも含めたさまざまな要素が重なる必要がある。そのことを感じているから、「した」のではなく「なった」と言いたくなるのかもしれない。

思えば、生まれてきたのも自分の意志じゃないし(いろんな説があるけれど)、その後の人生のさまざまな選択も、自分が生まれ育った環境などの影響を受けた結果にほかならない。どこからどこまでが自分の意志かなんて、本当は誰にも分からないはずなのだ。

でも、それでは何かがあった時に、誰も責任を負うことができない。それは困るということで、一応、「人にはそれぞれ自由意志というのがあって、自分の行為は自分の意志によって決めている」ということにしているにすぎない。

その考え方の延長線上に、今日の個人主義の社会があるのだろう。そして、そうじゃない社会の可能性だって決してないわけではない。

だから、ほうれん草に水をやりすぎてしまったのも、よくよく考えてみると、本当に僕の責任かと問われれば、必ずしもそうとは言いきれない。そう、言いきれないのだ!!

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