見出し画像

近所の土手

最近の休日はもっぱら、近所の土手をゾンビのごとく数時間歩き回っている。
天気が良くて気持ちがよいし、彼氏いないし、体を動かすのはやはりよいし、つらいし、散歩好きだし、家にいても気が滅入るし、学校ないし家庭もないし暇じゃないしカーテンもないし。
って感じでなんとなく外に出て、気がつくと近所の土手にいる。

近所の土手、それは私にとってここに帰ればなんか平気って思える場所。もはや家庭じゃん。ほんとにヤバくなったら土手に住むか。

というのは冗談で、近所の土手に来た時の安心感は、家庭とか他人とかそういうんじゃない、精神的拠りどころって感じがする。
のび太にとっての裏山的存在。それの埼玉バージョンてとこかな。

赤ん坊のころから土手に連れて行ってもらってたらしいし、死んだ爺さんに手を引かれ散歩したこともよく思い出す。こづかい0の小学生の遊び場所なんて土手しかなかったし、虐められた帰り道に虚無りながらチャリンコ飛ばしたこともある。ド平日の土手でニート気分を満喫したこともあるし実際ニートだったし、仕事中に発狂して飛び出してきたこともあるし、死んだ犬とも何回散歩に来たか分からないし、別れの痛みに耐えきれなくてなんかストイックな気分で走り込んでた時もある。

しんどい時なんかいつも土手にいるなって気がする。
そしてどんな状況でも、ここへ来れば「大丈夫」って気になる。
お金なくても仕事なくても彼氏なくても足さえあれば来れるわけだし、何十年経ってもなにも変わらない場所だから。

田舎の土手なのでほとんど人がいないし、いてもめっちゃ遠くにいるからお互い干渉なし。
ここでは心を自由に持つことが出来るし、どんな人間でもいて良い。
消費しろ、学べ、目標に向かって頑張れ、コミュ力をつけろ、常識的でいろ、年相応でいろ、結婚しろ家庭を作れ、
そういうことは一切求められないししてもしなくても近所の土手では関係ない。最高。

昔は「何かある」ところに行かないとダサいとか、世の中に置いていかれる気がしていたし、「何かする」ことをしないと這い上がれないと思ってた。
だから土手に行かない時期もあった。

でも、それだけじゃ気が狂ってしまうし世の中に振り回されて、自分を見失いそうになったしそういうこともあった。
色んなとこに行くのも必要、土手に来るのも必要。
40年近く生きてきてやっと少しずつ必要なものが分かってきたし、自分の音程の合わせ方も上手になってきた気がする。いい塩梅というか。

たぶん他の人はもっと早くに自分を理解して、ちゃんとそれに沿った行動ができるのだと思う。
人よりめちゃくちゃ遅れてると感じる。

小さい頃から馴染みのあるここに来れてるってことは、地元に出戻ったからだし、そして未だ自立できずにいて、また1人ぽっちになったし、情けないなあ悔しいなあとかももちろん考える。土手で。
しかし、考えたところで現実は変わらないし、土手はそんな私でも別に関係ないしって顔をしてるところがいいね。

明日も多分行きます。気が向いたら。



この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?