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教養系コンテンツの正確性はどこまで担保されるべきか

 種々の学術系コンテンツ(動画や記事)をネット検索し、容易に学べるようなったこの時代。その情報の正確性はどのレベルまで求められるのかを考察したい。(小野堅太郎)

 オンライン学習を余儀なくされるこの時期。多くの教養系動画コンテンツが上がってきている。中田敦彦さんなど芸能人の動画を見させていただくとレベルの高さに驚かされるが、用語の使い方に間違いもあり、訂正したい衝動に駆られる。ネット記事を見ていたら、こういった間違いが訂正されずに拡散放置されている状況はよろしくないというものがあった。確かにそうだが、ことさら批判的に論じるほど大きなことではないはずだ。教養的な内容を広く伝えるという本来の目的を達していれば、少々の間違いは許されてもいいのではないか。いや、間違った内容が社会に浸透するのは大きな勘違いに繋がり害悪となる可能性がある、というのがその記事の論調であった。

 研究の世界では、こうだと信じられていたものが、新しい研究によって間違っていたことが明らかになることはよくある。間違っていた研究者は悲しいことになるが、実験結果が自説を否定しているのであれば、納得せざるを得ない。しかし、実験にエラーはつきものなので、その研究者も反論をするのが常である。その後、いくつかの別の研究者グループたちの研究により傍証が固められて、修正されて、科学的な知見はひとところに落ち着いてくる。しかし、それもまた、未来の研究者たちにより否定される可能性がないわけではない。高校までで習う学習内容は「まあまず、ここ10年は否定されることはないだろう。」という科学的知見が厳密な日本語によって綴られており、うまいなーと感心させられてしまう。ただ、「ん?ここはどうなってんだ?」と深く考えたとたん、「わからない」とう暗闇に落とされてしまう。

 言葉は発したとたん、文字にしたとたん、真実から離れてしまうのは致し方ないことである。真実は経験であって、事象または個人に限定される。言葉は第三者に伝える手段であり、真実を完璧に表現できるほどの力を持っていない。さらに、事象は個人とは異なり、事象を経験した多くの個人それぞれによって語られるため、ある個人に限定した言葉の発信は真実の一部しか反映しえない。科学ではこの事象を「例数」を上げることによって解決しようとしている。とはいっても時間的・金銭的限界があるので、ある一定の母集団に限られる。歯周病の研究で実験度物のラット(もしくはマウス)を使って歯周病に似た症状を引き起こすことができる。これをモデルとして様々な解析を行い、病態を明らかにし、研究者たちは「歯周病にはこのような分子メカニズムが関係している。」と学会で語る。歯周病はヒトやイヌやネコなどのペット動物で発症が知られているが、齧歯類は通常の状態では発症しないので、この研究者の意見は厳密には間違っており、拡大解釈である。「歯周病にはこのような分子メカニズムが関係しているかもしれない。」とすれば、正確だと言える。こういった間違いは研究の世界でもあふれており、論文査読の時に審査員(レビュアー)から「may」を入れろと言われることもある。私は一度「may」を入れることを拒否したためレビュアーともめて編集長(エディター)から「may入れたら受理してやるから、入れてよ」と仲裁されたことがある。要するに、こういった細かな用語の使用云々については、人間社会では言葉を使う以上、科学の世界でさえ限界があるのである。

 ほほえましく思うのは、健康食品・器具のCMにおいて成功体験談のインタビューで「あくまでも個人の感想です。」とテロップが入っていることである。法律か何かで決まっているのだろうが、このテロップで正確性は担保されている。この商品で健康になったと語っている本人にとっては真実だからである(これがもし、お金をもらって嘘を言ってるのだとしたら、別問題だが)。TVのモーニングショーやニュースは、即時性があるという点で情報発信の優位性があるが、発信が一過性であるためコメントの正確性が著しくかけている。現在はネットですぐ炎上するので以前よりは抑制が効いているだろうが、今でもコメンテーターやアナウンサーのちょっとした言動が批判されている。一方で、批判されているので何を言ったんだと調べてみると、そもそもそんな趣旨を含まない発言であったり、一部が切り取られただけで全体を通して聴くと問題ないこともある。つまり、聞き取り側の問題、リテラシーの問題であることもある。

 本文も含めて、ネットの記事や動画で教養系のコンテンツを発信する際に、正確性はどこまで担保されるべきなのか。実際に撮影して編集してアップロードして自分の動画を見てみると、間違いだらけで頭を抱えてしまう。あっていると思っていたことが、他の先生から「あそこの理解間違っているよ。」と指摘を受けることもある。noteのような文章は指摘を受けて修正することができる。しかし、動画は初めから作り直しになってしまうため、労力の損失が大きい。学部学生への講義動画を撮影していて、最後の締めくくりで物質代謝の順番を初めからずっと言い間違えていることに気づいたときはつらかった(動画の最後で修正発言したのでママでアップロードした)。間違いに対する批判を恐れて動画を作製しないのは効果としてゼロだが、多少間違っていても動画を上げれば前には進む。社会規範や倫理を超えない範囲であれば、間違った内容も許されなければ教養動画を上げられる人はかなり限られてしまう。情報の閉塞化は避けなければならない。多少の失敗は覚悟の上で情報を公開し、間違いの指摘に対しては可能な範囲で対応していくことが必要だろう。ちなみにコンテンツの間違いについて批判的意見を受ける人は、基本的に多くの閲覧ユーザーを抱える有名人である。マナビ研究室はそこまでない。批判への恐れよりも、まずは閲覧者数を上げなければ意味がない。

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