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言語④カネオクレタノム #00094

言語を理解するとき、脳はとてもいい加減に働きます。電報で送られてきた「カネオクレタノム」、あなたの脳はどう理解しますか?人間(の脳)っていい加減(良い加減)なのです。(吉野賢一)

電報:1980年代後半まで、電報ではカタカナしか送ることができませんでした。そのカタカナ一文字(句読点も文字扱い)につき料金が加算されるので電報の文には無駄がありません。例えば、試験の合格/不合格を知らせる「サクラサク/サクラチル」、となりのトトロでサツキがカンタから受け取る「レンラクコウ」(連絡乞う)などは電報の定番でした。今、電報が使われるのはもっぱら冠婚葬祭での祝電や弔電ぐらいでしょう。折角ひらがなや漢字も使え、音楽を奏でたり飛びだしたり、花やぬいぐるみのプレゼントまで送られるようになったのに・・・電話を個人が持つ今、電報を送ったことも送られたことも無い若者もいることでしょうね。

カネオクレタノム:タイトルの文章、これはある学生が故郷の母親に送った電報です。学生の切実な願い「金送れ、頼む」は、残念ながら母親に届くことはありませんでした。母親はただ「奇特な人もいるのね。飲み過ぎないように」と思っただけでした。その理由は「金をくれた。飲む」と読んだから。たぶん母親はマナビ研究室の中富先生タイプだったんですね(動画参照)。

いい加減:私たちはいい加減に読みます。カネオクレタノムは「二つの解釈ができるので理解できません」とはなりません。多くの人が「金送れ、頼む」と理解します。「金をくれた。飲む」も間違いではありませんが、多くの人が前者の理解します。なぜどちらの理解も可能なのに、多くの人が「金をくれた。飲む」よりも「金送れ、頼む」と理解するのか、その理由は不明です。ただ、少なくとも私たちの脳がある優先度をもって「いい加減」に、つまり「良い加減」で読むことだけは間違いなさそうです。
YouTube動画では「私と手をつないでいる太郎と花子」など、良い加減に処理する例をいくつか紹介しています。手をつないでいるのは誰ですか?

曖昧に、空気(文脈)を読む脳:「読む」だけが良い加減に処理されるわけではありません。脳は、様々なものを良い加減に、曖昧に、空気(文脈)を読みながら処理しています。noteでそのことを説明するのは難しいので、YouTube動画を是非ご覧になってください。

00:15 手をつないでいる太郎と花子
03:05 最初と最後さえ合っていれば読めちゃう
04:40 「ビー」と「じゅうさん」と「サーティーン」
08:10 錯視

余談(電報で思い出した昔の話)

私が大学を受験した昭和50年代後半の話①:受験結果を電報で知らせてくれるのは、その大学の学生であるケースが多いようでした。学生が小遣い稼ぎで、大学とは関係なく勝手にやってたのです。私は頼みませんでしたが(結果は分かっていたから)遠方からの受験生はよく頼んでいました。なぜなら合格発表当日、自分の合否を確認する手段は大学構内の掲示板を見るしかなかったからです。自分で確認できなければ、他人に頼むしかありません。もちろん合否なんて当日じゃなくてイイや~って人は、合格していれば合格通知が後日届きますし、不合格者には何も届きません。1度目の受験で私には大学から何も届きませんでした・・・やっぱりね。

私が大学を受験した昭和50年代後半の話②:2度目の受験でも、電報は頼みませんでした(結果は分かっていたから)。ところが合格発表の当日の夜、私は自分の合格を知ることができたのです。さて、なぜでしょう?
当時、ラジオで九州大学合格者の氏名が全員読み上げられていたため、それを聞いていた九州在住の叔母が「けんちゃん(私)合格してたよ(やっぱりね)」と電話してきてくれたのです。翌日の九州各地の地方紙には合格者全員のフルネームが掲載されました。個人情報丸出し!古き良き時代~。

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