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7/18 Sun. 篠山紀信写真展


写真は死んで行く時の記録。
嵐の日も雨の日も
ぼくが撮る写真は、
いつも晴れた日。

(篠山紀信)

 恵比寿にある東京都写真美術館へ、篠山紀信の写真展『新・晴れた日』を見に行った。この写真展では、1960年代~現在の60年間にもわたる期間の作品が展示されている。

 パンフレットに記載されている篠山自身の解説が面白く、写真の世界に入り込める。話しかけてくるような口調のコメントにクスッと笑ってしまう。

 今回、印象的だったことは3つある。

 まず一つ目は「人間っぽさ」だ。
 今ほど写真の修整・編集技術が進んでいなかったころの作品では、雑誌の表紙であっても毛穴や眉の剃り跡、ニキビの跡、化粧の粗などが見え、新鮮だった。
 今日雑誌や広告に写っている人は大体がかなりの修整を施されている。これは確かに美しく見えるかもしれないが、作りこまれた美である。完成されすぎていて人形のようだ。
 だから、人間らしさの感じられる粗っていいじゃん、と思った。
 またコロナ禍のいま、多くのことは画面上で行われており、つるんとして手触りが感じられにくい。そのため、今回の写真展では「生きているエネルギー」をより強烈に受けた。

 二つ目は、自分の親がデザイナーとしてバリバリ働いていた時代を知れたことだ。写真展には母と行ったのだが、篠山がインタビュー映像でデザイナーや編集者の名前を出すたび「あぁ、この人ね。〇〇のデザインしてた人よ」「彼は私がデザイン会社で働いていた時の同僚」といった情報を注入してくれた。大切な時を思い出すようなキラキラした目であった。ある時代を知ることで、その時代の人をより深く理解できる。母や父の時代背景が少し想像できたことで、彼らのいつもの言動がしっくりきた。

 三つめは、「何者かになるためには継続しかない」ということだ。
 若いときに叩かれまくったという篠山のエピソードを聞き、「プロだってはじめはゼロからなのだ」という至極当たり前のことを改めて感じた。

 私はいま、自分が何者なのか分からない。
 けれども、いまできることをやることでしか「何者か」になれる道はやっぱりないんだと思う。

 だから今日またnoteを書いた。
 これからはベトナム等をテーマに、頻度を上げて発信していきたいと思っている。

(カバー写真:篠山紀信写真展『新・晴れた日』ポスターより)