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母が「まだ生まれてないけど」と言う理由がわかった初夏の日

「まなちゃんが生まれたのは夜の9時だから、この時間はまだ生まれてないんだけどね」

記憶のある限り、誕生日に何度この言葉を聞いたかわからん。私の母の言葉だ。

朝一番に「誕生日おめでとう!」と言われるときも、みんなでお祝いしているときも、ケーキを食べているときも。私はそれを聞くたびに、ちょっとだけお祝いムードの腰を折られる感じというか、「それ、いちいち言う必要ある?」と苛立つことさえあった。

私の誕生日は「私の誕生日」であって、正直、産まれた時間はどうでもいいんや。「まあ、まだ生まれてないんだけどね」と言われるたびに、「なにじゃあまだ祝っちゃいけないってこと?!」と反抗期まる出しでイラついていたような気がする。


さて、時は過ぎて、私も母になった。今度はこちらが、子どもの誕生日を祝う側である。うちの子は2人とも誕生日が近くて、さらには夫まで同じ月なので、6月の我が家にはずっと「HAPPY BIRTHDAY」が飾りっぱなしのバースデー月間だ。

今年、それぞれ5歳と2歳になった。もちろん朝一番に「誕生日おめでとう!」と抱き締めて、実はめちゃくちゃドキッとしたことがある。おめでとう〜!と言うたびに「まあ、まだ産まれてないんだけどね」と脳内で聞こえ、本当に喉元まで出かかるのだ。

誰しも親になって「げ、今の自分の親にそっくりじゃん」と青ざめる瞬間があると思うのだが、まさにそれだった。ひええ。


時は遡って2年前の梅雨時期。息子は、計画分娩で産まれた。覚えやすい日がいいだろうかとか、夫が休みやすい曜日はいつだとか、そんなこっちの都合で人の誕生日を決めるのは、なんだか申し訳ないような気もしたのを覚えている。

出産予定日は、陣痛も来てない状態で病院に行き「今日、産む予定なんですけど……」と伝えて入院させてもらう。私にとっては「ついに今日、産むんだ……!」という緊張と興奮の日にもかかわらず、道ゆく人や病院で働く人にとっては「なんでもない日」であることがすごく不思議だった。

少しずつ促進剤を入れながら生まれてくるのを待つわけだけれど、息子はなかなか出てきてくれなかった。娘のときは結構すぐに痛くなって、わあーっと産んだ感じだったのに、息子のほうはまったく音沙汰がない。

おいおい、誕生日変わっちゃうぞ……別にいいけどさ……

そう思いながら、ようやく産まれたのが23時過ぎ。息子をこの腕に抱いたときには、もう日付が変わっていた。


さて今年、息子は初夏の晴れやかな日に2歳になった。

朝9時、「おめでとう」と息子を抱きしめながら私は思う。あ、そろそろ病院に向かった頃だな。アニソン聴きながら大きいお腹で歩いたんだ。(だから、まだ生まれてはないんだよな)

午後2時、バースデーディナーを用意しながら私は思う。めっちゃ暇だったな〜。全然出てくる気配がなくて、ひとりで待機しながら夫とLINEしてたっけ。(まだ生まれてはないな)

午後7時、みんなでケーキを食べているときも私は思う。そろそろ分娩台に行った頃か。無痛分娩の麻酔が効くかどうか心配だったけど、待ちくたびれてたから嬉しかったな。(まだ生まれてない……)

午後23時、すっかり寝入った息子を見ながら、ようやく私は思う。あ、やっと生まれたね。お誕生日おめでとう。


ここまで追体験をして「なるほどなあ」と思った。母は、私の誕生日に「娘を産んだ日」を、頭のなかで再現していたんだと気づく。もちろん何時にどうしたなんて詳細に覚えてないだろうし、逐一その日のことを考えているわけでもない。だけど、なんとなく、30年以上も前の大切な日をもう一度過ごしている。

「まだ生まれてないけどね」という言葉には、産んだ日の母が宿ってる。私に会えるのを心待ちにしていた33年前の母が、何時間も苦しい思いをしながら踏ん張った母が、お腹の子に会えるまでの1日が「私の誕生日」なのだ。

だから、私も言ってしまう。「この時間はまだ産まれてなくて、早く会いたいな〜まだかな〜って待っていたんだよ」と。言われる側からしてみると、心底どうでもいいと思ってることも知っているから、もちろん心のなかでだけね……。



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