想起とわれわれの唯我論・その②

  何かを想起するとはいったいどのような事態なのであろうか。そこは言語と知覚が交差する複雑な哲学の係争地帯であるが、絡み合った問題を解きほぐす切っ掛けを、つぎのベルグソンの言葉は与えてくれるように思える。
 
「私にとって、現在の瞬間とは何か。時間に固有の本質とは、流れるということである。すでに流れた時間は過去であり、流れている瞬間をわれわれは現在と呼ぶ。しかし、ここでは数学的瞬間は問題になりえない。確かに、理念的で単に考えられるだけの現在、過去と未来を分けながら、それ自体はもう分けられない境界としての現在というものがあるだろう。しかし、実在的で、具体的で、現に生きられている現在の知覚について話をする場合に問題になっている現在は、必ず一定の持続を占めている。」
杉山訳『物質と記憶』p.201
 
  ここでベルグソンが「一定の持続」と呼ぶのは、「イマージュの残存」のことであるが、そもそもイマージュが残存していることを私がわかるためには、記憶が必要だろう。なぜなら、残存・持続とは前のものが今も残ったり続いたりしていることを言うのだから。そして、残存したイマージュはそれが何であれ、想起されたならば必ず私のイマージュであろう。ここにベルグソンの思索とわれわれの唯我論の接点があるのではなかろうか。
 
  さてところで、私とは何であろうか。それは、われわれの言語を使用する者の一人である。そして、大胆不敵に言いなせば、われわれの言語は私がその使用者の一人であるときに有意味である。つまり、われわれの言語は本質的に唯我論的なのである。
  だが、ここで唯我論の道は二つに分かれる。一つは、私があるから言語があると考える道であり、もう一つはそうは考えない道である。
  一つ目の考え方は、私と言語が別々だという前提の許にあろう。言語と別に私の意識、私の精神なるものがあるという前提のもと思索する道なのだ。その思索はつぎのような考えにつづいていく。われわれの言語を使用する私の意識があるならば、他者の意識についてはどうだろう。しかし、世界は唯我論的であると事実は変えられそうにないと強く信じる。すると、そこから出てくる帰結は他者の意識の不確かさということになる。いわいる他我問題と呼ばれるものだ。
  一方でしかし、私と言語は別ものではないと考える道もあったのだ。なるほど、言語獲得以前の私、未だ言葉を発しない私がいただろう。しかし、そのような私についての過去を想起するためにも、私はわれわれの言語を使うようになった現在の思考と切っても切り離せない地点にいる必要がある。そうでないと、想起がいったい何をしていることになるのか、それが想起なのかどうかもわからない状態に陥るであろうからだ。なるほど、私の意志は語彙を選択しているかもしれない。それは難しい哲学問題を孕む。しかし、選択された語彙の意味はやはり私と切っても切り離せないだろう。もしも、選択した語彙がそれが何であるのかが解からなければ、そもそもそれが語彙だったのかも、それが語彙の選択だったのかも怪しまれる事態に陥るしかないからだ。そう考えてくるとき、われわれの言語は唯我論的な構造をしているのではないかという問題に行きつく。こちらの道においては一つ目の道と違い、他者は問題とはならない。なぜなら、ここで他者は言語の中にすっぽり含まれているからだ。言語は世界の全体を写す。他者とても例外ではない。他者が聴き、覚え、話す言語は、われわれの言語である。そして、もちろん、私が聴き、覚え、話す言語もわれわれの言語である。しかし、われわれの言語は私にとっては透明性があるのに対して、他者の言語使用は不透明である。或いは、どんな他者であってもその死によってわれわれの言語活動の全てが消え去ったりはしないが、私の死においては言語活動は消える。それは、われわれの言語が私に相即的な事態であるとは言えまいか。しかし、本当にそんなふうに言えるのだろうか。
  と、ここで先に進む前に他者とわれわれの唯我論の倫理的な関係について一言だけ申し添えておこう。私がこの言語を獲得するには、さまざまな他者たちからの継承を要する。私はわれわれの言語を他者から学ぶのである。この学習がある種の信頼をもって遂行されなかったならば、私はこの言語を獲得していなかったであろう。別の言語をもって生きることは不可能なのだ、つまり、われわれの唯我論を啓くには実は倫理が前提されているのだ。だが、それはまた別の話である。
  では、われわれの唯我論を確証する作業へ入ろう。思索の焦点は想起である。そのような観点の許でベルグソンを読解していくことになる。

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