Meillassoux『有限性の後で』の感想文①

可能性の哲学問題について考えている行きがかりで、メイヤスーの『有限性の後で』を読む。副題に「偶然性の必然性についての試論」とあるのに魅かれたのだ。とはいえ、初めて知る著者であるし、どんな内容なのか頭にざっと概要を入れて読むのもわるくないと思い、「訳者解説」からよみ始めた。

訳者のお一人である千葉さんによると、この本は、「相関主義correlationisume」への批判の書であるということだ。われわれの認識はつねに言葉が介在している。星空を仰げば、焦点を定め、北極星をうかがい、庭の草花を手にとるときも、これは撫子、これはドクダミ、こちらは名も知らぬ花と、言葉を介在させている。そもそも時間や空間の位置を知るときも言葉が介在していよう。では、われわれは言語の外部へは出られないのか。もう少し、正確にいい直せば、われわれは言語なしで世界の事実にアクセスすることはできないのか。それが、本書と相関主義が共有する問いかけである。メイヤスーはアクセス可能だと応えて、相関主義は「できない」と応える。この辺りから疑問符が浮かびはじめるが、メイヤスーによると、相関主義にも強弱があり、アクセス可能性を示唆する形のそれが、カントであり、アクセスはできず沈黙するしかないとするのが、ウィトゲンシュタインとハイデガーということになる。

さて、ハイデガーは読もうとしていつもニ・三ページで挫折している口なので何も言えないのだが、カントは A版でのカテゴリー以前の「多様なもの」の問題があるし、ウィトゲンシュタインにしても写像理論によって事実に対応する命題を有意味な命題としたのではなかったか。つまりは、ごく自然に考えて、人間には意識できるものごとの他に、海より広く星より多いくらいの意識できないことがあり、それらに囲まれて暮らしているのである。哲学とは日常生活を機能不全にする神話をうち立てるものではない。だから、先の「われわれは言語なしで世界の事実にアクセスすることはできないのか」という問い自体が、それこそ無意味な形而上学のはじまりなのではあるまいか。

もうここらで読むのを止めればいいのかもしれないが、副題の「偶然性の必然性」はどこから出てくるのか気になる。また、序文のアラン・バディウがなかなか含蓄のある説明を本書に付しているのも気になるのだ。つぎは、バディウの言葉。

「……感覚的な経験が、自然法則の必然性について何も保証することができないとしたら、自然法則の必然性はいったい何に由来しているのだろうか。」

なるほど、これは〈自然の斉一性〉につながる論点であり、ニュートン力学を哲学によって基礎づけようとしたカントの問題意識にも通じるところがある。もう少し『有限性の後で』をよみ進めてみようと、目次を見る。

   一、祖先以前性  
   二、形而上学、信仰主義、思弁
   三、事実論性の原理
   四、ヒュームの問題
   五、プトレマイオスの逆襲

さて、ここでは第一章について述べて終わろうと思う。
われわれが今このように生きているのは過去があったからだ。有史以来のことなら文字に残っており、祖先の活動は遺跡から窺えよう。しかし、祖先以前の事柄はどうだろうか? 祖先以前のことを考慮したとき、われわれには相関主義では説明がつかない、言語の外部にある全き事実に触れねばならなくなるのではないか。

これが第一章のポイントだ。しかし、この列島に住むわれわれにとっては、成田正人氏がつねづね自らの問いとして考えてこられた〈未来の問題〉との関連が気になってしまう。

つまり、メイヤスーのポイントと同じことは実は、未来向きにした方がクリアに謎が描き出せるのではないかと、私には思われるのだ。言語で意識される未来は、勝手な空想でないならば、せいぜいのところ帰納的に推論されたものにすぎない。しかし、そのように、帰納的推論が実行されるそもそもの大前提に、事実としての未来があるということが大きく関わる。はて、この事実としての未来とは何か? それは、死後の世界や人の魂と同じく誰も見たことがない事実なのである。そして、祖先以前の過去と違い、どんな地質調査やどんな天体観測によってもアクセスできないのに、つねにすでに(そして誰しもに)到来しつつある事実なのではないか。

そう思うとき、メイヤスーの論述とわれわれの思索の交わる地点があるかもしれないと予感される。

(原書は2006年にフランスのスイユ社より出版。訳書は2016年に、千葉雅也・大橋完太郎・星野太の共訳で人文書院より出版された。)

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