バビロンについて語らせておくれ
何たる、何たる作品。禁じ手とも言えようラストのカタルシス、そして〈見せ方〉の極致。酸いも甘いも噛み分けた映画への愚直な愛情は偏愛といっても差し支えないであろう。余韻の二日酔いになってしまいそうだ。
私の大好きな映画作品のひとつでもある『カイロの紫のバラ(1985)』や『ワンス・アポン・ア・タイム・イン・ハリウッド(2019)』、『ニュー・シネマ・パラダイス(1989)』と同様のメッセージ性。
映画を好きになってよかった、好きでよかった。そしてこれから先も愛して行こうではないか。そんな気持ちが込み上げる。私の映画史におけるひとつ目のマイルストーンとなろう。
[狂乱]
鼎が沸くが如し狂乱のパーティーで幕を開ける本作。重なるのはディカプリオ主演の『華麗なるギャツビー(2013)』だ。生演奏のライブ感。狂ったように騒ぎ、踊り、乱れる。
理性をかなぐり捨て、悦楽浄土に足を踏み入れる人々。リミッターの外れた熱量、その出力は凄まじい。変幻自在な長回しに酔いしれる。
パーティーの終わりこそ狂乱狂騒歴史絵巻の始まりである。皆が活き活きしていた。映画に魂の全てを捧げていた。本能的な欲求が〈映画〉へ賭ける信念に変わっただけのことであり、実質的には一種のパーティーだったのだ。
"常軌を逸した時代だ"
『ミュンヘン:戦火燃ゆる前に(2021)』冒頭シーンのセリフだ。終わることへの予期をも含んだ儚い味がする。狂乱の時代にも同様に終わりがくる。しかし、無くなることはない。
パーティーのさなか、若者ふたりが映画への愛を語るシークエンス。監督の想いか、いやはや登場人物だけの想いか。少なくとも私の想いでもあった。
[石碑]
監督や俳優はいずれ消えゆく。しかし、作品だけは残る。もうこの世には存在しない人間が、若い姿でスクリーンに蘇る。『イニシェリン島の精霊(2022)』でも音楽の分野において扱われたテーマだ。それにどれだけの意義があるのか、私にはまだ分からない。
ただ、そんな私でも〈美しい営み〉として信じることのできる側面がある。先人の築いた地盤の上、そして進んだ轍の先。現代において我々が目にしている素晴らしき映画作品たちは、過去の映画人無しには存在しえないという側面だ。
これが如実に示されるのが本作のラストシーンである。リュミエールから『アバター(2009)』までもが登場する数十秒間。固まって動けなかった。現時代に我が身を固定された感触。気が遠くなるほどのこの営み。デミアン・チャゼルは涙腺への恐喝罪で訴えを起こされたとしても文句は言えまい。
現れては消えゆく有象無象が彩る映画史のひとコマひとコマの繰り返し。〈映画〉に命を懸けた先人らを見た気がした。
映画なんて無くても生きていける。それでも足を運ぶ。この世界を信じるためにも。両頬を伝う言葉にし難い感情。常軌を逸した時代は続いている。
[終焉]
本作の舞台となる時代はサイレント映画からトーキー映画への移行期。紛れもなく大きな〈変化〉の時代だ。映画人にとっても、観客にとっても。
サイレント映画の劇場内が祝祭的空間であれば、撮影現場もまた祝祭的空間であった。どんな〈音〉が入っても問題はない。熱気に満ち溢れた空間には〈魔法〉がかかる。
ブラッド・ピット演じるジャックと、マーゴット・ロビー演じるネリーの名演が重なるシーンには焦燥と笑いと感動で胸が熱くなる。
該当シーンを当時の劇場内で眺めるネリーの姿は、さながら『ワンハリ』で同じくマーゴット・ロビーが演じたシャロン・テートである。映画に関わる全ての人が、少なくとも映画においては報われてほしい。そう思うのは私だけだろうか。
悲しいかな、時代の移り変わりとともに製作形態や観客の需要も変わりゆく。藻掻けど藻掻けど見えぬ光。映画を語る強い言葉遣いとは裏腹に、半ば自身を諦めたようにも見えるジャックの姿が印象的だった。
『サンセット大通り(1950)』においても映画界の変化に着いて行けない女優が描かれる。誰かが落ち目になるとき、新たなスターは登場する。大量生産大量消費の波は劇場をも飲み込む。
[視線]
俳優は〈見られる〉存在である。新たなスターとして歩み出したジョヴァン・アデポ演じる黒人トランペッターのシドニーが〈視線〉の被害者であれば、ゴシップによって生活を変えられた登場人物らも同様だ。もっと言えば劇場における観客の反応も凶器となる。
この点はジョーダン・ピール『ノープ(2022)』の主題でもある。本作においてこの主題はハリウッドの〈闇〉の部分として示されていたが、それが如実に表現されるのが終盤の見世物小屋のシーンであろう。あの場面は一見本筋とは関係ないように映るが、紛れもなくハリウッドにおける〈闇〉の深遠である。
デミアン・チャゼルはこの〈闇〉をただ批判的に捉えるようなことはしない。〈見られる側〉から〈見る側〉への反逆をするのだ。ご覧の通り糞尿吐瀉物グロテスクのオンパレード。本能的に〈見たくない〉ものを此方にぶつけてくる。視線の問題に対する彼なりの〈アンサー〉とも言えよう。
もうひとつ面白いのが〈救済〉という側面。なにも映画を〈観る者〉だけが救われるのではない。トビー・マグアイアの演じた人物は、当の本人が抱えるゴシップの擬人化ともとれた。大いに顰蹙を買った彼の一面も作品の中においては輝くのだ。
[観客]
2021年の秋口に『アナザーラウンド』という映画を観た。最後列の中央だった。頭上から飛び立った光の柱が、スクリーンにぶつかり美しく舞う。その道筋にある観客席に映画という作品の成立過程を見たような気がした。
昨年の3月頃に観た『ベルファスト』はミニシアターの最前列の端であった。まこと見難かった。画面を視線を向けたとき、視界には観客席が映る。映画を観て多くの人が笑うその光景に、経験したことの無い温かさを覚えた。
忘れられない鑑賞体験のひとつに『ワンハリ』がある。満員に近い劇場。皆が声を上げて笑ったあの時間は、私の中に美しい思い出として刻まれている。
序盤で挙げた作品らと同様に、本作も主人公が映画を観るシーンがある。スクリーンに映る映像が、彼らの瞳で躍る。見る側、見られる側の境界を超え、私たちを含めた全てが〈作品〉であることを実感させられる。
劇場における観客として、本作を鑑賞できた、体験できたことを素直に嬉しく思う。
[虚構]
本作の題名は『バビロン』だ。紀元前に栄華を誇った古代都市の名を冠している。過去の栄華とサイレント期の映画界を重ねていることは想像に難くない。
もう一歩踏み込んで、古代バビロンにおいて建設されたという〈バベルの塔〉についても考えてみる。天上を目指して塔を築き上げようとしていた人々は、神の怒りに触れ都市もろとも瓦解させられた。
作中における〈塔〉とは何だったのか。ジャックか、ネリーらが追う自身の在り方か。はたまたサイレント映画だったのか。私が考えるのは〈映画〉そのものだ。
〈虚構〉としての映像媒体(全てがとは言わないが)である映画を、現実を生きる我々が求めるのは不自然なことであろう。虚構を求めることこそ、神より断罪されるべきことでは無いのか。
本作では〈映画〉というジャンルが築き上げられてゆく過程が示されていた。それは現在まで地続きである。そう、塔は未だ建設途中であるのだ。いつか瓦解するときがくるのだろうか。私にはまだ分からない。塔は思っているほど強固では無い。
ただ、まだまだ夢は魅せてもらうつもりだ。
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