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意識の博打

「意識がすべて」

その言葉は新興宗教みたいで勘違いされやすいけど、結局のところそうだから認めるしかありません。

自由意志とはそのためのもので、誰かが何かをこうしよう、と思う意識に力を与え現実化させることが法則だから、本来善悪は存在のしようもない。

人を助けよう、と思う意識に空から運動エネルギーが呼び込まれて他人を救う。

人を傷つけよう、と思う意識に空から運動エネルギーが呼び込まれて他人を攻撃する。

力学は共通していて、ただ調和か破壊かの違いしかありません。

何をしてもいい。

そして宇宙はただバランスのシステムだから、自分のやったことが自分に還元されるだけです。

人の面倒をよく見る人は、それだけ他人に助けられていく。

人に依存して自立しない人は、それだけ他人から見捨てられていく。

宇宙はただそうやってバランスしてるだけ。

だから、何を思うかで決まってしまう、思った瞬間で決まる。

宿命は変えられないけど、運命は変えられるとはそういうことです。

女であるとか、日本人であるとか、この両親の元に生まれたとか、そういうすでに決定済みの結果が宿命です。

生年月日も結果だから、変えることのできない宿命です。

そうやって変えることのできない歯車が人の誕生とともに同時多発的に起き、各個人の持つ周波数の最小公倍数と最大公約数の接点で、人生工程上出会うべき時に出会う人がいる、それは誕生の時点でおそらくほぼ決まっている。

出会いは宿命的です、しかし出会いの瞬間から先どう関わっていくかは自由意志で無限に決められる。

それを決めるのは意識です。

だから占いは宿命的に当たるけど運命的には100%自分が変えられる、占いなんてそんな程度であり、意識はそんなものを軽々と超越します。

たとえばある日ある時ある場所で詐欺師に出会うことは変えられない宿命としても、騙されて被害者になるか、あるいは毅然とはねつけてそれ以降何の関わりもなくなるか、もしくは意気投合して自分も詐欺集団の一員となるか、それはすべてその瞬間の自分の自由意志が決めることです。

人は無限也、とはそういうことです。

同じ体験をして、どう感じ、どう反応し、何を学び、どの感情を記憶するか、すべてその瞬間に無限の選択肢があり、どれを選んでも良いのです。

その無限の選択肢のことを、無限の可能性といいます。

すべては意識が決めること、意識は周波数だから、たいていの場合は周波数が低ければ破滅的な選択をし、高ければ調和的な選択をします。

それだけのことです。

高いか低いかもまた自分が決めればいいことです、簡単です、テレビと同じ、好きなチャンネルに合わせるのと同じです。

周波数が低いも高いもまた、そこに善悪はありません。

だから意識は最高のギャンブルです。

元手無しのうえ、還元率は無限。

特に絶体絶命のときこそ、自分の意識をためすチャンスです。

この勝負に負けたら死ぬという状況に立たされるのは、それはそれは恐ろしいです。

しかし意識がゼロ(中庸)であれば、勝つ以外ありえないわけです。

そうなるともうたかが物質的な眼前のピンチなど消え去り、向き合うべきは宇宙法則になってきます。

自分をゼロにしたとき、たまに、この意識と勝負できるものならやってみろ、法則ならば証明してみせよ、という歓喜にも似た挑戦的な感覚に包まれることがあって、それは法則の手綱を自分が握ったこと=自分が非常に自然な状態になった=中和力が必ず働くことを確信するからだと思います。

本当の意味で人が神になる瞬間とは自然法則と一体化したときであり、だからその瞬間に運命は無限になります。

地獄と天国は裏表、その両方を見る視点こそ+と-の中間、ゼロであり、そしてどんな勝負も本当はその一瞬で決まっているのだと思います。

一瞬で己をゼロにするのはもちろん難しいです、人間は基本的に偏っているからです。

実践することでしかそれは獲得できない感覚です、練習、練習、練習あるのみ。

そうしてたった一人で、真剣な一発勝負に勝ち続けてきた人のことを、覚者というのだと思います。

#日記 #エッセイ #占い #運命 #自然法則 #勝負 #意識


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