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小咄

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軽めの法話
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#僧侶

「生きなくて良い」という救い

ふと思い立ち、過去載せて頂いた新聞やらをまとめてみた。 有難いことに、25歳から様々なメディアへ取り上げて頂いて、想像以上の記事が集まった。 ところが、去年の下半期からペースダウンが目についた。 それもそのはず、2022年はひさしぶりの希死念慮が猛威を振るい、死なないことで精一杯だったのだ。 折角良いペースでやれることも増え、チャンスに恵まれていたのに、余裕が無くてなにも出来なかった。 その事実がまた首を絞めて、あれよあれよと自殺志願者。 起こる全てが死ぬ理由に繋が

御守り

「梛(なぎ)」という木がある。 その葉は葉脈が縦に走り、引っ張っても切れにくく丈夫であることから「縁が切れない」「御縁を結ぶ」縁起の良い木であると重宝されてきた。 そんな梛の木を御神木とする神社が京都に在り、名を「元祇園梛神社」という。 この神社は全国的にも珍しく「元祇園梛神社」と「式内隼神社」という二つの本殿が境内に隣り合い建っている。 そんなおおらかさがなんだか好きで、数年前からお正月にはこの神社へ詣り「梛の実」というおみくじを買って帰るようになった。 梛の実は

2022年、振り返り。

思い返してみれば、今年は年明けからずっと悪意と敵意に曝され続けた一年だった。 割と理不尽な理由で、色んな相手から代わる代わる攻撃を受け続け、なかなかに苦しかった。 しかし、そんな中で学んだのは「反撃」じゃない「自己の守り方」というものだった。 今年、私は「法律」という他者の力に救われることがままあった。 人と人とが共存するために敷かれた法は、社会生活に於ける問題の答え。 ある意味無機質で、しかし、人間に対して大きな力を持つそれは、とても心強かった。 「いざとなれば自

燻る炎と心の器

喜怒哀楽といった、誰もが持つ心の存在。 仏教では煩悩とも呼ばれ、これを無くすことが悟りにもつながると言われている。 何故なら、これによって人は争い、傷付き、苦しむからだ。 そんな心の痛みや苦悩は己を燃やし、擦り減り、いつしか我が身を焼き尽くしてしまうだろう。 しかし、私たちの心は、そんな感情の炎と共に、それを包む「器」も備えている。 焼いて固める陶器のように、こころを燃やすことで育てられ、硬く頑丈になるだろう。 「言いたいことを言いたいときにいわず、我慢出来るのが大人

自虐ナルシストは蝙蝠外交

妙晶は詐欺写が得意である。 それはもう、魔訶レベルに。 ※実物とイメージは異なる場合がございます。 デリヘルなら、全力で「チェンジ」を叫ばれる程度の巧さである。 しかし、写真に写るのが得意なわけではない。 詐欺写の骨は、あくまでも「補正」なのだ。 補正(ほせい)…足りないところを補って、誤りを正すこと。 その昔、妙晶は美人になろうと思った。 あることをきっかけに、「外見は力だ」と思い知ったからである。 「人間は中身が大切」 しかし、中身を見てもらえるのは外

「こら、そっちじゃないよ」

浅春の候、皆さまお変わりは御座いませんでしょうか。 巷は『新型コロナウイルス感染症』に大騒ぎですね。 国からも自粛令が下され、ディズニーランドを始めとする遊園地や美術館などの臨時休業、卒業式や入学式も中止されるなど、日本中に大きな影響が出ています。 特に「選抜高校野球大会」通称「春のセンバツ」は、1,924年に始まって以来、史上初の中止だそうです。 今まで当たり前だったものが急に奪われ、社会は動揺と混乱に満ちています。 しかし、「3月11日」東日本大震災から9年目を迎

厭世僧侶は愛しい貴方に恋をする

「恋」と「愛」の違いは「下心」と「真心」 って、聞いたことがある。 初めて耳にした時は「下心=スケベ心」と思っていたので、あまりしっくりこなかった。 だけど、いまふと「下心=疑念」「真心=信頼」を思い付いて、腑に落ちた。 私は人を信頼しない。 よく「感情を見せない」と言われる。 わかる。自分でもそう思う。 警戒はしてない。でも、心を開かない。 素の自分が受け入れられると思ってないから。 「ありのまま」は「そのまま」じゃない。 他者と生きるには努力が必要で、

透明人間の特色

「One Picture is worth a thousand words」(一枚の絵は千の言葉に値する) アメリカに伝わることわざです。 これは人間が文化を創り出す上でめちゃんこ重要な事実です。 宗教のような概念でしか存在しない事柄は特に。 宗教画ってね、言うでしょう。 なんて、別にそんな話はするつもりはありません。 アドラー式アート・ワークへ参加してきたんです。 そこでそのことわざを聞いたんで、使ってみただけです。 今回お話したいのは、その中で遇った

お誕生日のアニサキス

突然ですが、私のお誕生日は平成7年の1月17日です。 阪神淡路大震災のその日その時に生まれました。 これを言うと、大体一発で覚えて頂けます。が、人付き合いの悪い私はあまりお誕生日を祝われた経験が御座いません。哀しみ。 けれども徐々に他者を大切にすることも覚え、それに伴ってかお誕生日の折に祝福の言を頂けることが増えて参りました。 これは「やったぜ」ってなもんで、調子に乗ってお誕生日の前後に人に会う機会を増やしてみたりしました。 もちろん、あわよくば祝って貰う為です。

saṅgaḥ

お疲れさまです。 抱えていた仕事がひと段落して、くつろぎなうの私です。 箱買いしたドーナツ片手にバランタインさんwith MONSTER(白)。至福。 束の間の安息を噛み締めながらほんのりふわふわ、ほろ酔い気分。 そんな夢見心地で、今回は法話というものについて改めて向き合わせていただこうと思います。 そもそも、法話とは。 ざっくり言うと、法(人間という集団で生きる上でのルール)の話(説明)です。 詳しくは、動画にまとめてあるので見てみてください。 法話を話す布

dānam

こんばんは。 新しい役職に就き、早ひと月が経ちつつある私です。 上司も先輩も話の分かる良い方ばかりで、幸せですよ。 動きやすくて遣り甲斐にあふれております、いぇい。 今日はたまたまその役職員が集まっての会議があったのですが、そこでですね、「君は頼まれたら絶対に断らないよね、気を付けないといつか損するよ!」って言われたんです。 それを言われて、ずっと無自覚でしたが『確かに!』って思っちゃったんですよね。 今の私って、『自分に出来ることがあることが嬉しい』モードなんで