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透明人間の特色


「One Picture is worth a thousand words」(一枚の絵は千の言葉に値する)

アメリカに伝わることわざです。


これは人間が文化を創り出す上でめちゃんこ重要な事実です。

宗教のような概念でしか存在しない事柄は特に。

宗教画ってね、言うでしょう。


なんて、別にそんな話はするつもりはありません。


アドラー式アート・ワークへ参加してきたんです。

そこでそのことわざを聞いたんで、使ってみただけです。


今回お話したいのは、その中で遇った

『自分を色と形で表現する(顔は描かない)』

というワークの中で得た気付きについて、です。


これは自分で自分を描く以外に、参加者同士でも描き合ったりしました。

お互いの印象を色と形だけで表現するということですね。


そこで私はどういう絵を描いたかというと

白い紙を白いクレヨンで塗り潰す

という絵です。


それ以外の選択肢はなかったですね。

そして、「白」という色にもこだわりもなくて、紙が黒だったら黒いクレヨンで同じことをしました。


描いてる間はずっと「この結論へ至ったのは何故だろう…」と考えていました。


自分が無いのかなぁ…

他者に合わせてばっかだもんなぁ…


そんな風に最初は考えました。

けれど「頑固ってよく言われるよな」と思い出し、再考。


自分が無いわけではない

ならば、その頑固さは何処のことなのか


そうして見つけた答えは、「塗り潰す」ということ。

色や形で見れば「白い紙に白いクレヨン」の私は自分が無いでしょう。

しかし「何色でも同じことをする」というのであれば、なるほど。

それは特性と言って不足は無いでしょう。


透明人間がその「透明」さを己の特色としたように、無色だから非存在ということにはならない。

同じ色だろうと、色を塗ったらそれは別物です。


その特性をある人は『他者に寄り添う姿勢』と評して下さいました。

なるほど、上手い表現だ。一気に良い人っぽい。


また「手法」という、おそらく想定外であろう回答を出した私はきっと「自由」なのでしょう。

他の参加者からは、そういった印象が複数寄せられました。


色が無く、形も持たない私だからこそ、何かに捉われることもなく他者の在り方を受け取れるのかもしれません。

先日「何者にも染まらない」ではなく「何者も受け入れて虹色にしてしまう人」に遇いました。

それはこの特性の最たる存在だったのかも知れません。


これが真実か否かは不明だけれど、それでも、「他者に寄り添う姿勢」が私に在ると想えることには大きな意味があるんじゃないかな。


そう思えば、そう成る。


思考に気をつけなさい、それはいつか言葉になるから。

言葉に気をつけなさい、それはいつか行動になるから。

行動に気をつけなさい、それはいつか習慣になるから。

習慣に気をつけなさい、それはいつか性格になるから。

性格に気をつけなさい、それはいつか運命になるから。


って、マザーテレサさんが言ってました。



そんなひとに、成れたら良いなぁ。






ありがとう、だいすき。